伝記
バヤズィト1世は、1360年にオスマン皇帝ムラト1世と、バルカン半島出身の奴隷だった妃ギュルチチェク・ハトゥンの子として生まれた。幼少期は第二の宮廷があったアナトリアのブルサで過ごした。積極的な外征と迅速な決断から「雷帝」「稲妻」と呼ばれる。王子時代から戦場で活躍し、ビザンツの皇子アンドロニコスと共謀して反乱を起こした長兄サヴジが処刑されると、後継者に指名された。父の取り決めた政略結婚でゲルミヤン侯国の王女を娶り、持参金として首都キュタヒヤなどの都市がオスマンに譲られた。
1389年6月15日、コソボの戦いのさなかにムラト1世がセルビア人の貴族に暗殺されると、翌16日にバヤズィトが即位した。戦場には人望の厚い弟ヤクブらも従軍していたが、即位後ただちにこれらの弟たちを処刑し、スルタンの地位を固めた。この粛清が、のちのオスマン帝位継承に伴う兄弟殺しの先例となった。父の死の時点で左翼がセルビア騎兵に撃破される危機にあったオスマン軍を、彼は立て直してセルビアを破り、公ラザルら捕虜の貴族を処刑した。自ら武器を取って敵軍に突撃し血路を開いたとも言われる。1390年にはラザルの娘を娶り、セルビアはオスマンの属国として存続することになった。
その後は各地で勢力を広げた。1390年からアナトリアへ遠征してサルハン、アイドゥン、メンテシェ、ハミドの各侯国を征服し、ゲルミヤンも支配下に置いた。1391年にビザンツ皇帝ヨハネス5世が没すると、従軍していた皇子マヌエルが無断でブルサを脱出して帝位に就いた。バヤズィトはコンスタンティノープルを包囲したが、ハンガリーの動きを見て、貢納と引き換えにマヌエルの即位を認めた。1394年夏からは7年にわたる包囲が始まり、その間も別働隊がテッサリアやセルビア、ブルガリアを攻め、1393年に反乱を起こしたブルガリアの首都タルノヴォを3か月の包囲の末に陥落させ、のちブルガリアの大部分を手中に収めた。1395年のワラキア遠征ではロヴィネの戦いで敗れて退却を余儀なくされている。
こうした拡大に、ハンガリー王ジギスムントは教皇庁に十字軍を要請し、ローマ教皇ボニファティウス9世らが西欧諸国に結成を呼びかけた。1396年9月、包囲の指揮を執っていたバヤズィトは急ぎ引き返し、25日にニコポリスで十字軍と衝突した。ジギスムントの忠告を無視して個別に突撃した西欧の騎士たちを集団戦法で撃破し、自らも負傷しながら戦って完勝した。ブルゴーニュの公子ジャンらを捕虜とし、釈放と引き換えに多額の身代金を得た。戦後はヴィディンを併合し、ワラキアに臣従を誓わせた。
しかし、東方に大帝国を築いたティムールがアナトリアに現れると情勢は一変した。ティムールは帰順を求める書簡を送ったが、バヤズィトは拒絶した。1402年7月20日、アンカラ近郊のチュブックで両軍が衝突すると、旧主に寝返る騎士が出て劣勢となり、イェニチェリとセルビア兵は王子と大宰相を守って戦場を脱出した。バヤズィトは妃デスピナ、子のムーサーとともに捕らえられた。捕虜の彼は丁重に遇されたともいうが、逃亡を図って厳重に監視された。サマルカンドへの移送の途上、1403年3月8日にアクシュヒルで没した。死因は痛風とも、隠し持った毒による自害とも言われる。帝国に残された領地には、バヤズィトの四子スレイマン、メフメト、イーサー、ムーサーが割拠し、帝位を巡って争った。
同じ年に亡くなった人物
- Isa Celebi (1403年)
- ヘンリー・パーシー (ホットスパー) (1403年没)
- キャサリン・スウィンフォード (1403年没)
- Hafsa Hatun (1403年)
- Muhammad Sultan Mirza (1403年)
同じ地域に関係する人物
- シェフザーデ・ムスタファ (1515年 - 1553年) (1553年没)
- Konca Kuris (1998年没)
- ピリ・メフメト・パシャ (1532年没)
- ジャラール・ウッディーン・ルーミー (1273年没)
- クルチ・アルスラーン2世 (1192年没)