HISTORICAL PERSON · 69年没

Lucius Vitellius

皇帝ウィテリウスの弟のローマの元老院議員。紀元48年に補充執政官となり、三人の皇帝に寵愛された。アフリカ総督としては誠実だったと伝わる。四皇帝の年、ボウィッラエで降伏したがだまし討ちで処刑された。

生涯
69年没
死亡地
イタリア共和国(ラティーナ県 / テッラチーナ)
出生地
イタリア共和国(ヌチェリア)
出典
世界地図
イタリア共和国(ラティーナ県)

伝記

ルキウス・ウィテリウスは、1世紀のローマの元老院議員である。ルキウス・ウィテリウスとセクスティリアの次男で、のちに皇帝となるアウルス・ウィテリウスの弟にあたる。生年は10年とされ、69年12月22日に没した。経歴はティベリウス、カリグラ、クラウディウス、ネロの各皇帝の治世にまたがる。区別のため、父と並べて「小」を付けて呼ばれることもある。

48年の後半、ガイウス・ウィプスタヌス・メッサラ・ガッルスを同僚として補充執政官を務めた。最初の妻は46年か47年に結婚したユニア・カルウィナで、アウグストゥスの子孫にあたる貴族の女性だったが、49年より前に離婚した。この件では、皇后アグリッピナが、息子ネロの花嫁にオクタウィアを確保し、ネロの前途を脅かしかねない人物も除こうとして、ユニアの兄ルキウス・ユニウス・シラヌス・トルクァトゥスに、妹への不適切な愛情があると偽って告発させた。その手先となったのが、ユニアの夫だったルキウスであるとされる。2人目の妻はトリアリアである。どちらの結婚にも子はなかった。

スエトニウスによれば、ルキウスは3人の皇帝に気に入られ、そのおかげで公職や重要な神官職を得た。公職には公共事業の管理官も含まれる。3人の皇帝とは、おそらくクラウディウス、ネロ、そして兄のウィテリウスである。アフリカ属州の総督も務め、2年間きわめて清廉に振る舞ったと伝えられ、その一部の期間は兄の代理として職務に当たった。61年から62年にかけて兄がアフリカ総督であった時期に、その副官を務めたともいう。

生涯のなかで最もよく記録されているのは、四皇帝の年である69年の最後の数か月である。この年、ルキウスはローマにいて、兄ウィテリウスの敵であるオトに従ってムティナまで同行しなければならなかった。ウィテリウスがベドリアクムの第一次戦闘でオトを破ると、ボノニアからルグドゥヌムへ行って兄に合流した。元老院議員としては、ウェスパシアヌス側に寝返ろうとして部下に捕らえられたアウルス・カエキナ・アリエヌスと、ユニウス・ブラエスス(クィントゥス・ユニウス・ブラエススの子)を告発したとされる。スエトニウスは、兄がローマに入った際に、ルキウスが2,000匹の選りすぐりの魚と7,000羽の鳥を並べた宴を開いたと記している。タキトゥスによれば、ガリア・ルグドゥネンシス総督の任からローマに戻ったブラエススを、ルキウスは兄に訴えた。カエキナ・トゥスクスがブラエススを称えて開いた宴会で、屋敷に明かりがともっているのに皇帝が気づくと、ブラエススは軍と都市の民衆の人気を集めようとしていると皇帝は言い、弟に命じてその殺害を迫ったという。ブラエススは毒殺された。

ウィテリウスがウェスパシアヌスに備えて進軍すると、ルキウスは数個の大隊を率いてカンパニアに送られた。ウェスパシアヌス派の蜂起を鎮めるためで、騎兵500と歩兵6個大隊を連れていたとされ、フェロニアを占領し、タラキナを裏切りによって手に入れたともいわれる。ただし、タラキナを包囲して破壊したとする伝えもある。兄が降伏すると、ルキウス自身もボウィッラエで降伏した。その後の最期については、安全を交渉したのちに騙し討ちで処刑されたとも、兄と甥とともにウェスパシアヌスの命令で絞首されたともいわれる。没した日については、12月22日のほか、69年7月11日とする記述もある。

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