伝記
ボニファティウス9世は、本名をピエトロ・トマセッリといい、1350年頃にナポリ王国の古い貴族の家に生まれたとされる。ジェノヴァの有力貴族の流れを引き、その一族がナポリ王国のカザラーノに定着していたという。教会大分裂の時代のローマ教皇であり、今日まで「ボニファティウス」の名を選んだ最後の教皇である。同時代のドイツ人の年代記作者は、彼が読み書きもできなかったと敵意をこめて記したが、神学者として訓練されておらず教皇庁の実務にも通じてはいなかったものの、困難な時代にあって戦術に長け慎重だったと評される。
1381年にウルバヌス6世によって助祭枢機卿に、1385年に司祭枢機卿に任じられた。1389年のウルバヌス6世の死後、ローマに残った枢機卿たちに選ばれて教皇となり、イタリアの大部分、神聖ローマ帝国、イングランド、ハンガリー、ポーランドなどの支持を得た。しかしアヴィニョンの対立教皇クレメンス7世はこれを認めず、両者は互いに破門し合った。ボニファティウス9世はナポリでも、クレメンス7世がアンジュー家の王子を王に戴冠させたのに対し、1390年にラディズラーオを戴冠させ、その後およそ10年をかけてアンジュー勢力を南イタリアから追い出そうとした。
在位中、ローマ市の自治を終わらせて世俗の支配権を確立し、1398年にローマの支配権を握ったとされる。もっとも、サンタンジェロ城や橋の要塞化が必要で、長い期間をアッシジやペルージャなど穏やかな土地で過ごさざるを得なかった。教皇領でも主な城や都市を少しずつ取り戻し、15世紀の教皇領の基となる形に整えた。1390年と1400年には聖年が祝われ、多くの巡礼者が集まったが、免罪符の説教は濫用や醜聞を招いた。1400年にはコロンナ家の反乱で8000の兵がローマ教皇庁を攻撃したが、鎮圧された。1399年末には鞭打ち苦行者の集団「白衣の苦行者」が、特にプロヴァンスで現れて各地に広がり、ローマに近づいた。教皇と教皇庁は当初その熱意を支持したが、彼らがローマに着くと、教皇は指導者を火刑に処させ、一団はまもなく散った。
1394年にクレメンス7世が死去すると、後継の対立教皇ベネディクトゥス13世が選ばれた。ボニファティウス9世は、イングランド王リチャード2世やフランクフルトの議会、ローマ王ヴェンツェルといった有力な支持者からさえ退位を求められたが、拒んだ。ベネディクトゥス13世との話し合いも拒否したため、分裂は長引いた。分裂を断つには公会議しかないという圧力も高まったが、その動きは在位中には進まなかった。1400年にヴェンツェルが選帝侯に廃されてループレヒトが擁立されると、承認を渋り、1403年になって承認した。またハンガリーでは、1401年と1403年の二度、王ジギスムントへの貴族反乱に乗じてラディズラーオをハンガリー王に承認した。このためジギスムントが教皇へのハンガリーからの資金供給や教会人事権を禁じ、ハンガリーの支持を失った。資金集めに聖職売買、贖宥状の販売、重税、縁故登用に走ったことでも悪名を残した。
1404年10月1日に死去した。亡くなる前の9月にベネディクトゥス13世が分裂の終息を話し合う使節団を送ったが、彼は使節と口論となり、聖職売買を非難されて興奮して倒れたことが死因とされる。後任にインノケンティウス7世が選ばれたが、分裂はなお続いた。
同じ年に亡くなった人物
- Gerhard VI of Holstein-Rendsburg (1404年)
- アルブレヒト1世 (バイエルン公) (1404年没)
- カテリーナ・ヴィスコンティ (1404年)
- フィリップ2世 (ブルゴーニュ公) (1404年没)
- ピエール2世 (アランソン伯) (1404年没)
同じ地域に関係する人物
- ジュゼッペ・トマージ・ディ・ランペドゥーサ (1957年没)
- ステファヌス5世 (ローマ教皇) (891年没)
- リッカルド・フレーダ (1999年没)
- フランチェスコ・バルベリーニ (1679年没)
- グナエウス・パピリウス・カルボ (紀元前113年の執政官) (紀元前112年没)