伝記
ピール・ムハンマド・ジャハーンギールは、ティムール朝の王族で、ティムールの孫にあたる人物である。ティムールの子ジャハーンギールの子で、1376年に、父の死から40日後に生まれたとされる(1374年ごろとする記述もある)。母は、チャガタイ・ハン国のハンであるバヤン・クリの娘ハニケ、あるいはヤサウリー部族出身のバフト・ムルクと考えられている。過度の飲酒を好む人物と伝えられる。1404年にサマルカンドを訪れたカスティーリャ王国の使者ルイ・ゴンサレス・デ・クラヴィホは、その容姿を、黄褐色の肌をした髭のない人物と記録している。
1391年のティムールのキプチャク草原遠征では、叔父のシャー・ルフとともに、首都サマルカンドの留守を預かった。翌1392年からの五年戦役にも従軍した。1392年からカンダハルの総督を務めたともされ、1397年末にはアフガニスタンに赴任して、いまのアフガニスタンの東半分にあたる地域を支配した。領地は、ヒンドゥークシュ山脈の西からインダス川にまで及んでいた。1397年末、祖父ティムールの命令でインドへの侵攻を始め、クエッタ近辺のアフガン人を討ってインダス川に達した。インダス川をさかのぼり、トゥグルク朝の有力者サーラング・カーンが知事を務めるムルターンを包囲した。6か月の包囲の末、食糧が尽きたムルターンを攻略したが、意外な苦戦を知ったティムールが親征を決意した。ムルターンを攻略したのちに軍は豪雨にあって軍馬をすべて失い、帰順していたインドの領主たちも翻意してムルターンへ進軍した。10月25日にピール・ムハンマドの軍はティムールの本隊と合流して窮地を救われ、軍馬の補充を受けて本隊に編入された。
ティムールは、ピール・ムハンマドの兄のムハンマド・スルタンを後継者と考えていたが、1403年3月にムハンマド・スルタンが急死した。1404年、中国遠征の前にサマルカンドで開かれた大祝宴で、ピール・ムハンマドは新しい後継者として参加者に紹介された。1405年2月18日にティムールがオトラルで亡くなったとき、ティムールはピール・ムハンマドを後継者にするよう遺言した。当時カンダハルにいたピール・ムハンマドは、祖父の死と遺言を知ってサマルカンドへ向かった。しかしサマルカンド近辺では、ティムールの甥スルタン・フサインと、ピール・ムハンマドの従兄弟ハリール・スルタンが後継者の地位を主張しており、フサインを追い払ったハリールがサマルカンドの主となっていた。ティムールの親族はだれも彼を支持しなかった。
1405年末、ピール・ムハンマドはアフガニスタンからバルフに移り、シャー・ルフに協力を求めた。1406年2月にハリールと戦ったが、勝利の直前に指揮下のアミールの数人が逃亡したために敗れ、バルフに退いた。領地にとどまることは許された。1407年2月、配下のスルドゥズ部のピール・アリー・ターズに暗殺された。反乱の理由は、ティムールの時代に解体されたスルドゥズ部の再統一や、ミーラーン・シャーとハリールの示唆などが考えられている。死後、子のカイドゥがバルフに残されたが、シャー・ルフに救い出された。
同じ年に亡くなった人物
- ルイ・ド・ヴァロワ (オルレアン公) (1407年没)
- 胡季犛 (1407年没)
- Rainier II of Monaco (1407年)
- オリヴィエ・ド・クリッソン (1407年没)
- マリア・デ・ルナ (1407年)
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