伝記
セシル・B・デミルは、1881年8月12日にマサチューセッツ州アシュフィールドで生まれたアメリカの映画監督、映画プロデューサー、脚本家、俳優である。20世紀前半の映画創成期に最も成功した映画製作者のひとりで、「スペクタクルの巨匠」「史劇の巨匠」として知られる。父はオランダ系移民、母はイギリスから渡米したドイツ系ユダヤ移民で、両親は脚本家だった。12歳の時に父が亡くなったため、母は生計を立てるために女子のための学校と劇団を設立した。デミルは演劇学校で演技を学び、1900年に舞台俳優としてデビューし、その後の12年間は俳優として、また母の劇団の運営も手がけた。1902年、21歳でコンスタンス・アダムスと結婚し、4人の子供に恵まれている。兄のウィリアムも映画界で脚本家や監督として活動した。
1913年以降、数多くのサイレント短編を監督した。エジソンが作った映画特許会社の手から逃れるために、ハリウッドで映画を製作したのだった。1913年には、プロデューサーのジェシー・L・ラスキーらが設立した会社で、ハリウッド初の長編映画(80分以上)である『スコウ・マン』を監督して人気を呼んだ。この会社はのちに、アドルフ・ズーカーが率いる会社と合併し、現在のパラマウント映画となった。1915年には『チート』で早川雪洲をトップスターにした。また、ヤマベという日本人を運転手兼従者として雇い、欧州旅行にも同行させていたという。
1920年代には、第一次世界大戦後の好況期における大衆の享楽志向を捉えてヒット作を連発し、ハリウッドの実力者にのし上がった。成功の秘訣は、男性客を喜ばせる場面でも、女性が画面に釘付けになるように演出を仕組むことだった。バスルームの場面では最高の品のバスローブを用意させ、女優たちが身につける宝石も本物で撮影した。絢爛豪華な衣装は彼の映画の代名詞となり、多くの女性客を魅了した。一方で、保守派や宗教団体の反発も予感していた。『十誡』(1923年)では、旧約聖書という固い主題を扱うことで世論の動きが鎮まることを期待した。しかし豪華主義は変わらず、劇中では3千人もの人員や何千頭もの家畜をエキストラとして動員し、モーゼが紅海の海水を割る場面の派手さは後々まで語りぐさとなった。この映画は制作費を超える収益をあげ、続けて『キング・オブ・キングス』(1927年)、『暴君ネロ』(1932年)、『クレオパトラ』(1934年)など歴史ものを撮って次々と成功した。マスコミはシルクのシャツに乗馬用ブーツ姿の彼を揶揄し、パラマウントを「デミル王国」と呼んだ。1927年には映画芸術科学アカデミーの創立会員36名の1人にも名を連ねた。1930年代後半には西部開拓史を舞台とした『平原児』『大平原』などを撮り、揺れ動く世情の中で国民の愛国心を鼓舞することを意図した作品群となった。
戦後は、スタジオ・システムの崩壊とテレビの台頭のなかで、映画の復権をめざした。『サンセット大通り』(1950年)には本人役で出演し、『地上最大のショウ』(1952年)ではアカデミー賞の作品賞を獲得した。同年、ゴールデングローブ賞に彼の名を冠した「セシル・B・デミル賞」が設けられ、第1回の受賞者は彼自身だった。1956年には75歳で『十戒』を撮り直し、重い心臓発作に見舞われるなか製作と監督にあたった。この作品はアカデミー賞の作品賞候補となり、特殊効果賞を受けた。1959年1月21日、心臓疾患のため亡くなった。
同じ年に亡くなった人物
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- レイモンド・チャンドラー (1959年没)
- フリードリヒ・ヴァイスマン (1959年没)
- チャールズ・ヴィダー (1959年没)
- エルハルト・シュミット (1959年没)
同じ地域に関係する人物
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- アーチー・ムーア (1998年没)
- キャロル・チャニング (2019年没)
- ジェリー・バス (2013年没)
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