伝記
フランク・ロイド・ライトは、1867年6月8日にウィスコンシン州で、牧師の父ウィリアムと母アンナの第1子として生まれたアメリカの建築家である。ル・コルビュジエ、ミース・ファン・デル・ローエとともに「近代建築の三大巨匠」と呼ばれ、グロピウスを加えて四大巨匠とすることもある。ウィスコンシン大学マディソン校の土木科を中途で退学し、シカゴに移った。叔父の紹介でジョセフ・シルスビーの事務所に入ったが、1年ほどで辞め、アドラー=サリヴァン事務所へ移った。そこでは才能を見込まれ、1888年以降のほとんどの住宅の設計を任された。ルイス・サリヴァンを「愛する師匠」と呼んで尊敬し、生涯にわたってその影響を認め続けた。
勤めて7年になろうとする1893年、事務所とは別に住宅設計のアルバイトをしていたことが知られて咎められ、事務所を辞めて独立した。経済的な困窮は、子だくさんに加え、洋服や車など贅沢を好む暮らしぶりによるものだった。独立後最初の作品は1894年のウィンズロー邸である。1893年から1910年までの17年間に、計画案を含めて200件近い設計を行い、プレイリースタイル(草原様式)の作品で知られるようになった。1906年のロビー邸が代表作で、屋根裏や地下室をなくして高さを抑え、水平線を強調し、部屋どうしを完全には区切らず緩やかにつなぐのが特徴である。シカゴ・コロンビア博覧会に出展された宇治平等院鳳凰堂の模型に着想を得たといわれ、19世紀末のアメリカで爆発的な人気を得た。
しかしこの後、1936年のカウフマン邸(落水荘)まで、長い低迷期を迎える。きっかけは、1904年竣工のチェニー邸の施主の妻、ママー・チェニーとの不倫だった。ライトは1889年に結婚したキャサリン・トビンとの間に6人の子がいたが、離婚を切り出しても妻は応じなかった。1909年、42歳で事務所を閉じて家庭も捨て、チェニー夫人とヨーロッパへ駆け落ちした。1911年に帰国するまでの2年間は設計の仕事をしなかったが、ベルリンで滞在中、のちに作品を広く知らしめるヴァスムート社の作品集の編集と監修に関わった。帰国後は、母から与えられたスプリング・グリーンの土地にタリアセンを設計した。その後、使用人のジュリアン・カールトンが建物に放火し、チェニー夫人と2人の子、弟子ら計7人を斧で殺害する事件が起きた。ライトは難を逃れたが、大きな精神的痛手を受けた。
そんな中で依頼が来たのが、日本の帝国ホテル新館の設計だった。1913年に訪日し、以後もたびたび訪れて設計を進めたが、予算の大幅な超過と工期の遅れで経営陣と衝突し、完成を見ずに離日した。ホテルは弟子の遠藤新の指揮で続けられ、1923年に竣工した。1930年代後半になるとカウフマン邸とジョンソンワックス社の2つの代表作を相次いで発表し、70歳代で歴史の表舞台に返り咲いた。ともにカンチレバー(片持ち梁)が効果的に使われている。同じころ、プレイリースタイルの発展形として「ユーソニアン・ハウス」を考案し、万人に安価でより良い住宅を提供することをめざした。浮世絵の収集でも知られ、日本文化から少なからぬ影響を受けたと指摘される。1959年4月9日に亡くなった。2019年には「フランク・ロイド・ライトの20世紀建築作品群」として、8件が世界遺産に登録された。
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