伝記
アマーヌッラー・ハーンは、1892年6月1日にカーブル近郊のパグマンで生まれた、アフガニスタンのバーラクザイ朝第6代の国王である。パシュトゥーン人の家に、国王ハビーブッラー・ハーンの第二夫人の三男として生まれ、父に気に入られていた。カーブルの総督となって軍と財政を握り、多くの部族長の忠誠を得ていた。1919年2月、父は狩猟旅行中のラグマン州で、テントで眠っているところを何者かに頭を撃たれて死んだ。随行していた叔父のナスルッラー・ハーンが、ジャララバードで国王を宣言し、父の長男イナーヤトゥッラーもこれを支持した。だがカーブルに残っていたアマーヌッラーは、父の死を知るとすぐに国庫を押さえ、叔父に対してクーデターを起こした。カーブルと中央政府を掌握し、2月28日に自ら国王(アミール)を宣言し、その日アフガニスタンの独立も宣言した。
叔父は流血を望まず、サウジアラビアへの亡命を申し出たが、アマーヌッラーは危害を加えないとコーランに誓って呼び戻しておきながら、3月に逮捕して投獄したという。4月の宮廷会議は父の殺害の罪で大佐を処刑し、叔父にも関与があったとして終身刑を言い渡した。叔父はおよそ1年後、獄中で殺されたと伝えられる。5月にはイギリスに対してジハードを宣言し、イギリス領インドのパシュトゥーン人の蜂起をあおって、第三次アフガン戦争が始まった。当初は優勢だったが膠着し、イギリスは1か月ほど部隊を投入しながら顕著な成果を収められずに退いた。アングロ・アフガン条約(ラーワルピンディー条約)により、アフガニスタンの独立が承認され、イギリスの外交上の影響から解き放たれた。ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国とも外交関係を結んだ。
国内では、義父で外相のマフムード・タルズィーの助言を受け、平等な権利と個人の自由を盛り込んだ近代的な憲法を構想した。国の最初の憲法「アフガニスタン最高政府基本法」は、1922年4月11日にジャララバードの大会議で、872人の部族長や官僚によって承認されている。しかし聖職者階級は、当初の支持から積極的な敵対へと変わった。多妻制と未成年者との結婚の禁止、チャードルを被る義務の撤廃、女学校の開校、教育への聖職者の監督の廃止など、オスマン帝国で行われたような改革が、特別な不満を招いたのである。1923年以降、改革に不満を持つ保守派の蜂起が相次ぎ、1923年にはハザラジャート州、1924年にはパクティヤー州で起きたパシュトゥーン人の蜂起を鎮圧した。
1926年6月7日、称号をアミールからシャーに改め、同じ年にソビエト連邦と中立および相互不可侵の条約を結んだ。1928年、カーブルの男性に洋服の着用を義務づける命令を出したが、これが致命傷になったとされる。同年にシンワラなどで反乱が起こり、ハビーブッラー・カラカーニーの部隊がカーブルを占領した。1929年1月14日、兄のイナーヤトゥッラーに王位を譲って亡命した。兄も数日後に王位を追われ、同年10月、アマーヌッラーのもとで国防相を務めたムハンマド・ナーディルがカラカーニーを処刑して王位を継いだ。亡命後のアマーヌッラーはイタリアを経てスイスで私人として暮らし、政治から退いて、1960年、チューリッヒで没した。遺体はアフガニスタンに運ばれ、ジャララバードの父の墓の近くに葬られた。
同じ年に亡くなった人物
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