伝記
アルベール・カミュは、1913年11月7日にフランス領アルジェリアのモンドヴィ近郊で生まれた、フランスの小説家・劇作家・哲学者・随筆家・記者である。父リュシアンは農場労働者で、19世紀初めに祖父がフランスから渡ってきた家の出だった。母カトリーヌ・サンテスはスペイン系の大家族の娘で、聴覚に障害があった。二人の息子をもうけたが、カミュが生まれた翌年、父はマルヌ会戦で戦死した。以後、母と兄弟はアルジェ市内のベルクール地区にある母の実家に身を寄せた。家には祖母と叔父が同居していたが、読み書きのできる者は一人もいなかった。貧しくはあったが、地中海の自然に恵まれた幼少期を過ごした。
1918年に公立小学校に入学した。貧しい母の実家には進学の希望はなかったが、教諭のルイ・ジェルマンがカミュの才能を見抜いて家族を説得し、1924年に奨学金を受けてアルジェの高等中学校に進んだ。カミュは受けた恩を生涯忘れず、ノーベル賞記念講演の出版にあたって、ジェルマン先生への献辞を添えている。リセ時代はサッカーに打ち込み、ときにアルバイトもしながら優秀な成績を保ったが、1930年に結核の徴候が現れて喀血し、この病は以後生涯にわたって健康をおびやかした。リセの教員との出会いに触発されて、文学への志望を固めた。1932年にアルジェ大学文学部に入学し、1934年には学生結婚をしたが、この結婚は破綻し、のちに離婚した。1935年に共産党へ入党し、劇団「労働座」の創設に関わったが、党幹部とアラブ人活動家との間で板ばさみになり、除名された。
1936年に大学を卒業し、1937年に処女作のエッセイ集『裏と表』を出版した。1938年から新聞の記者となり、冤罪事件や植民地経営の不正を暴く記事を書いた。1939年に第二次世界大戦が始まると、徴兵を志願したが、健康上の理由で拒否された。平和主義を唱え続けた新聞が検閲を受けて1940年に発行停止になると、パリの新聞の編集部へ移り、そのかたわら不条理をテーマにした三部作『異邦人』『シーシュポスの神話』『カリギュラ』を書き進めた。ドイツによるパリ占領後は、編集部とともに移動し、同年12月にフランシーヌ・フォールと婚姻届を出した。失業して北アフリカのオランに身を寄せ、三部作を完成させた。1942年に喀血して療養し、同年6月に『異邦人』、12月に『シーシュポスの神話』を刊行した。1943年から非合法誌『コンバ』の発行に関わり、占領下のパリでサルトルやボーヴォワールとも親交を深めた。
1944年のパリ解放後は『コンバ』の編集長となった。対独協力派に厳しい姿勢を示して寛容派のモーリヤックと対立したが、のちに死刑には反対するようになった。1947年には小説『ペスト』を刊行し、復興期のフランスで幅広い読者を得た。1952年のエッセイ『反抗的人間』をめぐってはサルトルから徹底的に批判され、アルジェリア戦争での曖昧な態度も批判を受けて、フランスで孤立を深めた。1956年に中編『転落』を、翌年に短編集『追放と王国』を発表し、1957年、43歳でノーベル文学賞を受けた。戦後では最年少の受賞だったが、フランスの反応は冷淡だった。1960年1月4日、友人ミシェル・ガリマールが運転する車でパリへ向かう途中、ヨンヌ県で立ち木に衝突し、即死した。自伝的小説『最初の人間』は未完に終わった。
同じ年に亡くなった人物
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- アルフレッド・L・クローバー (1960年没)
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