伝記
アルベルト・ケッセルリンクは、1885年11月30日にバイエルン王国のマルクトシュテフトで生まれ、1960年7月16日に没したドイツの軍人である。当初は陸軍に属し、ドイツ空軍の創設時に空軍へ移って、最終階級は元帥となった。第二次世界大戦のイタリア戦線の司令官として知られる。
父カール・アドルフは学校の教師で町の参事会員でもあり、母はロジーナといった。一族はマルクトシュテフトで1688年から醸造所を持っていた。1904年にバイロイトの中等学校を卒業すると軍に入り、第2バイエルン徒歩砲兵連隊で士官候補生として勤務した。1906年に少尉となり、1910年にバイロイトの薬剤師の娘リニーと結婚した。夫妻に実子はなく、1913年に男児を養子に迎えた。1912年に観測気球の教程を修了し、航空への関心を早くから示した。第一次世界大戦では副官や参謀将校として従軍し、1917年のアラスの戦いなどで働いて大尉に昇進した。
戦後は、ヴェルサイユ条約で兵力が10万人に制限されたヴァイマル共和国軍に選ばれて残り、ニュルンベルクでバイエルン軍の復員業務に従事した。右派の準軍事組織との対立から逮捕され、まもなく釈放されたが、上官に慎重さを欠くと戒められたという。1922年から国防省で勤務し、訓練課長などを歴任した。1933年10月に大佐となり、ドイツ空軍の創設に従事することになった。翌年4月に少将として空軍に移り、空軍軍政部長に就任した。すでに48歳であったが、自ら飛行機の操縦を学んだといわれる。第一次世界大戦でゲーリングと知り合ったことが、空軍での出世につながったともいわれる。1936年に中将に進み、同年空軍参謀総長となった。
第二次世界大戦では第1航空艦隊を率いてポーランド侵攻に加わり、騎士十字章を受けた。1940年のフランス侵攻に従い、フランス降伏後の7月19日、元帥に列せられた。第2航空艦隊を率いてバトル・オブ・ブリテンを戦い、独ソ戦では、部隊はポーランドに移された。その後は北アフリカ戦線とイタリア戦線で空軍を指揮し、マルタ島を空爆して、地中海の英海軍にも大きな損害を与えて、ロンメルの進軍を支えた。連合国軍が上陸したイタリアでは地上部隊の指揮も任され、巧みな遅滞戦闘で連合国軍の進撃をある程度阻んだ。この戦功で1944年にダイヤモンド付きの鉄十字章を受けた。ローマに空襲が及びそうになると、教皇ピウス12世の呼びかけに応じて、ローマを無防備都市とし、戦災から救った。1944年10月、前線視察中にボローニャ付近で砲身に頭部を強打して頭蓋骨を骨折し、重傷を負った。1945年3月に復帰して、ルントシュテット元帥に代わり西方軍総司令官となり、5月4日に連合国に降伏した。
戦後、ヴェネツィアの英軍法廷で、イタリアでの一般市民殺害の罪により銃殺刑を宣告されたが、のち終身禁錮に減刑され、1948年にはさらに懲役21年となった。1952年、癌に冒された健康状態を理由に釈放された。その後は、西ドイツで再建された鉄兜団に参加して、死去まで指導者を務め、回顧録『最後の日まで兵士だった』を1953年に出して、戦争犯罪を否認した。バート・ナウハイムのサナトリウムで心臓発作のため亡くなり、墓はバイエルン州バート・ヴィーズゼーにある。微笑を絶やさない風貌から、連合国側は「微笑みのアルベルト」と呼び、自軍の兵士は「アルベルト叔父さん」と呼んだ。
同じ年に亡くなった人物
- ウォルター・バーデ (1960年没)
- イーゴリ・クルチャトフ (1960年没)
- ハンス・アルバース (1960年没)
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