伝記
ゾラ・ニール・ハーストンは、1891年1月7日にアラバマ州で生まれ、1960年1月28日にフロリダ州で没した作家、民俗学者である。アフリカ系アメリカ人の作家として1920年代から40年代に活躍したが、その後約30年間は著書が絶版になっていた。1975年に同じ黒人女性作家のアリス・ウォーカーに再発見され、ハーレム・ルネサンスの代表的な作家として再評価された。
父ジョン・ハーストンと母ルーシー・アン(旧姓ポッツ)の八人の子の第六子として生まれ、ミドルネームの「ニール」は、母の友人であるニール夫人にちなむ。翌年、父がフロリダ州サンフォードのバプテスト教会の牧師になり、一家は同州イートンヴィルに移った。ここは1887年に自由黒人たちが創設した、アメリカ初の黒人の自治の町だった。父は1897年から3期にわたって町長を務め、ハーストンは「黒人としての劣等感を決して植え付けられることなく」育ったという。13歳のとき母が39歳で急死し、父が翌年すぐに再婚したため、家を出て、年長のきょうだいのもとに身を寄せた。兄の子の子守や、劇団の女優の身の回りの世話、ウェイトレスなど、職を転々としながら学業を続けた。ボルチモアの夜学に通ったときには、26歳で高校を卒業していなかったため、16歳と偽って入学し、以後も正確な生年月日を明らかにしなかった。
1918年に父が鉄道事故で亡くなった後、ワシントンに移ってハワード大学の準備校に入り、1920年に準学士号を得た。文芸クラブの雑誌に最初の短編と詩を発表し、ハーレム・ルネサンスの舞台で活動の場を広げた。1925年には短編「スパンク」と戯曲「カラー・ストラック」が文学賞でともに第2位となり、授賞式でラングストン・ヒューズらと知り合った。この年、バーナード・カレッジに推薦されて入学し(1928年に学士号)、奨学金を受けて、文化人類学の創始者とされるフランツ・ボアズに師事した。1926年にはヒューズらと主要な文芸誌を創刊している。
1927年からは、助成金や支援者の援助を得てフィールドワークを行った。ボアズの勧めで、失われつつあるアフリカ系アメリカ人の文化を記録するため故郷フロリダに向かい、松脂の生産地や製材所で働く黒人たちと暮らしながら、民話、民謡、迷信、ほら話などを集めた。ヴードゥー信仰の女性神官に弟子入りして、その中に複雑な儀式の体系があると知った。1927年には、最後の奴隷船の生き残りカジョー・ルイスに取材して伝記を書いたが、出版社に断られ、刊行が決まったのは執筆から87年後だった。1934年には初の長編小説を9週間で書き上げ、1935年に民話集を、1938年にジャマイカとハイチを調査した『ヴードゥーの神々』を出した。1937年9月に代表作『彼らの目は神を見ていた』を発表したが、政治的な抗議を描かないとして、リチャード・ライトらから批判を受けた。1942年に自伝、1948年に最後の小説を著した。出版社に原稿を断られることが重なって生活は苦しくなり、代替教員や家政婦などの仕事もした。1959年に脳卒中で倒れ、福祉ホームで亡くなって、フォートピアースの墓地に葬られた。
同じ年に亡くなった人物
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