伝記
ボリス・レオニードヴィチ・パステルナークは、1890年2月10日にモスクワで生まれたロシア・ソ連の詩人・小説家・翻訳者である。父はユダヤ系の画家レオニード・パステルナーク、母はピアニストのローザ・カウフマンで、ボリスが生まれる直前に両親は正教に改宗した。レフ・トルストイは家族の親しい友人であり、父はトルストイの『復活』の挿絵を手がけていた。1910年11月にトルストイが家を出てアスタポヴォの駅長の家で亡くなったときも、父は電報で知らせを受けて息子を連れてかけつけ、死の床の様子をスケッチしたと伝えられる。家にはラフマニノフやスクリャービン、リルケらも訪れた。
ボリスははじめ音楽家を志し、13歳のころスクリャービンの音楽に触れて作曲家を目指し、モスクワ音楽院で学んだが、絶対音感が欠けているとして19歳で断念した。《ピアノ・ソナタ》などの作品が残っている。次にモスクワ大学で哲学を専攻し、1910年にドイツのマールブルク大学へ渡って、新カント派のヘルマン・コーエンらに学んだ。1912年の夏、紅茶商の娘イーダ・ヴィソトスカヤが訪ねてきたとき愛を告げた体験は、のちに詩「マールブルク」に描かれた。コーエンは博士号を取るよう勧めたが従わず、哲学を諦めてモスクワの作家サークルに加わった。1913年に詩が集合詩集に載り、1914年には最初の詩集『雲の中の双生児』を出したが、作風はまだ未熟だった。同じ1914年、未来派団体「遠心分離器」に加わり、ウラジーミル・マヤコフスキーと親しくなった。第一次世界大戦中はペルミ近郊の化学工場で働き、教師もつとめた。この経験は、のちの『ドクトル・ジバゴ』の材料となった。十月革命のあと、家族や知人の多くはロシアを去ったが、彼は国に留まった。1922年に詩集『わが妹 人生』を発表し、ツヴェターエワやマンデリシュタームを知った。
早くから高い評価を得ていたが、1930年代には政治的な非難を受け、沈黙を強いられた。その間にシェイクスピアや『ファウスト』、グルジアの詩人などの翻訳を手がけ、ゲーテやシラー、シェイクスピアの翻訳は長く民衆に支持された。1956年に『ドクトル・ジバゴ』を書き上げたが、体制批判を含むためソ連の雑誌にことごとく掲載を拒まれ、翌1957年にイタリアで出版された。ソ連で刊行されたのは、ペレストロイカが進んだ1987年のことである。1958年にノーベル文学賞の受賞が決まったが、この小説の出版と受賞はソ連共産党にとって許しがたいことで、国家保安委員会(KGB)や作家同盟の反対運動の末に、辞退に渋々同意した。辞退の手紙には、ソ連当局の反応が唯一の理由だと記されていた。のちの1989年に遺族が賞を受け取っている。
晩年は愛や不死、神との和解といった普遍的な問題を論じ、最後に刊行された作品は1959年の『晴れよう時』となった。論争のさなかでも毎日の執筆の予定を守り、翻訳を続けていたという。1959年の夏に農奴の芸術家を描く戯曲『盲目の美女』を書き始めたが、完成する前に肺がんになった。1960年5月30日の晩に、自宅で息を引き取った。最後の言葉は「私はよく聞こえない。そして目の前は霧で覆われている。でもそれは晴れるだろう。明日は窓を開けるのを忘れないでくれ」だったという。わずかな死亡告知しか出なかったが、手書きの葬儀の通知がモスクワの地下鉄中に張り出され、何千人もの人がペレデルキノの墓地に集まった。
同じ年に亡くなった人物
- オスカー・アンダーソン (1960年没)
- オーギュスト・エルバン (1960年没)
- 賀川豊彦 (1960年没)
- フェリックス・ケルステン (1960年没)
- エディ・コクラン (1960年没)
同じ地域に関係する人物
- エマヌエル・カザケーヴィチ (1962年没)
- ヴィクトル・ママトフ (2023年没)
- ビクトル・チーホノフ (1930年生) (2014年没)
- ガリムジャン・フサイノフ (2010年没)
- Mikhail Zadornov (2017年没)