伝記
ミシェル・ド・フランスは、ブルゴーニュ公フィリップ3世(善良公)の最初の妻となったフランス王女である。1395年1月11日に、パリのサン・ポル館で、フランス王シャルル6世と王妃イザボー・ド・バヴィエールの五女、第7子として生まれた。姉には、イングランド王リチャード2世の妃となり、のちにオルレアン公シャルルの妃となったイザベルと、ブルターニュ公ジャン5世の妃ジャンヌがおり、妹にはイングランド王ヘンリー5世の妃カトリーヌ、弟にはギュイエンヌ公ルイ、トゥーレーヌ公ジャン、のちのフランス王シャルル7世がいる。
当時の王族の子としては珍しい名は、1393年の末に、父が聖ミシェル山修道院を詣でて精神の病が回復したとされるため、大天使ミカエルへの感謝を示して名づけられたという。父は1392年から錯乱の発作に苦しんでいた。後世の研究によれば、母イザボーは子どもたちのそばにいて、贈り物や信仰の書を買い与え、娘たちが教育を受けられるようにし、結婚後の娘たちとも密に手紙をやりとりしていた。最初は、母方の伯父バイエルン公ルートヴィヒ7世の世話で、プファルツ=ノイマルクト公ヨハンとの縁談が進められたが、実現しなかった。
1409年6月、ブルゴーニュ公ジャン1世(無怖公)の長男で、又従弟にあたるシャロレー伯フィリップと結婚した。3年後の1412年には、ミシェルの弟の王太子ルイと、フィリップの姉マルグリットが結婚した。この二重の縁組は、母と無怖公が1404年に両者の同盟関係を深めるために約束していたものだった。アルマニャック派とブルゴーニュ派の内戦のなかで、王室とブルゴーニュ家を近づける目的もあった。ミシェルは持参金として、ペロンヌ、ロワ、モンディディエの町を携え、これは1418年に正式に任された。そして化粧料として、これらを死ぬまで所有することになった。
1413年、夫妻は領民の願いを受けて、フランドル伯領に住み、そこで6年を過ごした。1419年、父ジャンが亡くなり、夫はブルゴーニュ公の家督を継いだ。夫は、不在のあいだ、ミシェルにフランドルとアルトワの統治を任せた。ミシェルは穏やかな性格で、母が娘夫婦に何かと影響力を及ぼそうとするのを防ぎ、夫に愛情を注いで盛り立てた。兄の王太子シャルルが1419年に舅ジャンの暗殺に関わったのちは、ふさぎ込むようになったらしい。
1422年7月8日、ミシェルは夫の不在のあいだに病気になり、27歳でヘントで亡くなった。夫のフィリップもヘントの人々も、彼女の優しさゆえにその死を深く悲しんだ。この死は、毒殺だったともいわれる。ミシェルのドイツ人の侍女ヴィエスヴィル夫人は、死の少し前にエール=シュル=ラ=リスに送り返されていたことから、毒殺の疑いをかけられたが、訴追されることはなかった。子は、娘アニェスが一人いたが早世したともいう。遺体はヘントの聖バーフ修道院に葬られた。夫は1424年にボンヌ・ダルトワと再婚したが、翌年に死別し、1429年にイザベル・ド・ポルテュガルと3度目の結婚をした。
同じ年に亡くなった人物
- シャルロット・ド・ブルボン (1422年没)
- ヨハン4世 (メクレンブルク公) (1422年没)
- タッデーオ・ディ・バルトーロ (1422年)
- シャルル6世 (フランス王) (1422年没)
- 太宗 (朝鮮王) (1422年没)
同じ地域に関係する人物
- フリッツ・ファン・デン・ベルヘ (1939年没)
- Jan Frans Willems (1846年没)
- ジャック・ロゲ (2021年没)
- パウル・ファンデン・ブイナンツ (2001年没)
- ボードゥアン2世 (フランドル伯) (918年没)