伝記
ゲイリー・クーパーは、本名をフランク・ジェームズ・クーパーといい、1901年5月7日にアメリカ合衆国モンタナ州ヘレナで生まれた俳優である。愛称は「クープ」。イングランドからの移民の家に生まれた2人兄弟の弟で、兄アーサーは6歳上だった。父チャールズ・ヘンリー・クーパーはベッドフォードシャー州の出身で、高名な弁護士、牧場主であり、モンタナ州最高裁判所の判事も務めた。母アリスはケント州の出身である。1906年に父が牧場を買い、兄弟は夏をそこで過ごして、馬に乗ることや狩り、釣りを覚えた。1909年には、母がイギリスの教育を受けさせようと兄弟をイングランドに連れて行き、ダンスタブルの文法学校で学ばせた。1912年8月に母とともにアメリカへ戻り、ヘレナで学業を再開した。15歳のとき、自動車事故で腰を痛め、医師の勧めで牧場に戻って乗馬で療養したが、この療法のために、のちの彼の特徴となるぎこちない歩き方と、少し傾いた乗馬の姿勢が残ったという。
1918年に高校を中退して牧場でカウボーイとして働いたが、1919年には父の手配でボーズマンの高校に通い、英語教師アイダ・デイヴィスに励まされて学業と弁論、演劇に取り組んだ。彼女のことを、カウボーイをやめて大学に進むことになった一因となった人だと、のちに語っている。絵に興味を持ち、1922年に美術を学ぶためアイオワ州のグリネル大学に入学した。だが1924年2月に突然大学を去り、シカゴで画家としての仕事を探したのち、ヘレナに戻って地元の新聞に風刺漫画を売った。1924年秋、父が判事を辞めて親戚の財産後見人としてロサンゼルスに移ったため、母らとともに移った。
ロサンゼルスでセールスマンなどの仕事に就いたが長続きせず、友人の紹介で、191センチの長身を生かして西部劇のエキストラとして出演を始め、俳優を志すようになる。1925年に名前をゲイリー・クーパーと改め、1926年の『夢想の楽園』で本格的に映画デビューした。小さな役で出ていたこの映画を見たパラマウントの製作本部長は、「この男は、うしろ向きに立っているだけで女性ファンの心をつかむ」と見込んで契約した。1927年の『アリゾナの天地』で主役を演じ、しばらくは主にB級西部劇で活躍した。1929年の『バージニアン』で西部劇スターの地位を確立し、翌1930年にはマレーネ・ディートリヒと共演した『モロッコ』で世界的な大スターの仲間入りを果たした。1936年には『オペラハット』でアカデミー主演男優賞にノミネートされた。映画館主が選ぶドル箱スターのベスト・テンには、1937年から1957年の21年間に19回も入った。
1939年の『風と共に去りぬ』のレット・バトラー役の依頼は辞退し、ヒッチコックが『海外特派員』と『逃走迷路』に希望した際も、サスペンスは低俗だと見て断った。のちに『海外特派員』を見て、出ておけばよかったと後悔したという。1941年に伝記映画『ヨーク軍曹』でアカデミー主演男優賞を獲得し、翌年の『打撃王』でも候補となった。1952年には『真昼の決闘』で二度目の主演男優賞を得たが、授賞式には出席せず、ジョン・ウェインが代わりに像を受け取った。1933年にヴェロニカ・ヴァルフと結婚し、一人娘マリアが生まれている。1949年には共演した女優パトリシア・ニールとの関係が発覚した。1960年にアカデミー名誉賞を贈られ、翌1961年5月13日、前立腺癌のため60歳で亡くなった。カンヌ国際映画祭には、死後にゲイリー・クーパー賞が設けられた。
同じ年に亡くなった人物
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