伝記
フランク・ボーゼイギは、1893年4月23日にユタ州ソルトレイクシティで生まれたアメリカ合衆国の映画監督である。家系はスイス、イタリア、オーストリアにさかのぼり、父はイタリア語を話す石工、母はドイツ語を話す人で、8人きょうだいの4番目だった。父の仕事を手伝うために13歳の頃には金鉱で働いていた。だが少年のうちに旅役者の劇団に入って、役者を始めていた。映画界に入ったのは1910年代で、西部劇のエキストラとして働いたのち、1913年、20歳のときにプロデューサーで監督のトマス・インスのもとで働き始めた。助演から軽い主演へと役が広がった。1914年の『火の海』で青木鶴子と共演して一躍スターとなり、この時代の映画出演は110本を超えた。やがて俳優と監督を兼ねるようになった。
1920年、ファニー・ハースト原作の『ユーモレスク』で初めて一流監督の仲間入りをした。マンハッタンのロウアー・イースト・サイドのユダヤ人を生き生きと描いた作品である。フォックス映画会社に移ってからの『第七天国』(1927年)では、史上最初のアカデミー監督賞を獲得し、ジャネット・ゲイナーとチャールズ・ファレルをスターにした。1年後の『街の天使』で再び2人を共演させ、これも1920年代の最も優れた映画の1本とされる。
トーキー映画の難しさはかろうじて乗り越えた。1931年の『バッド・ガール』で2度目のアカデミー監督賞を受けている。翌年にはヘレン・ヘイズとゲイリー・クーパーを主演に、『戦場よさらば』を監督した。第一次世界大戦の戦闘を、暗闇の視点から表現主義的な手法で描いた作品である。この頃から、映画製作に一家が関わるようになった。弟のダニーは俳優として独立して、『駅馬車』と『怒りの葡萄』にアコーディオン弾きとして出演し、もう一人の弟リューは長く兄や他の監督の助監督を務めた。1930年代半ばには、ハリウッドで最も優れた職人監督と認められていた。1934年には、第一次世界大戦後のドイツの庶民の暮らしから社会問題を描いた『第三階級』を撮り、1938年にはジョセフ・マンキーウィッツが製作した『三人の仲間』で、3人の幼なじみの男と若くして亡くなる少女を描いた。1940年の『死の嵐』は、ナチス・ドイツによって普通の家庭が崩壊する物語であった。
1940年代前半になると、創作意欲ははっきりと落ちた。『大編隊』(1940年)は素晴らしい配役ながら型どおりの作品で、1943年の『ステージドア・キャンティーン』は愛国主義とセンチメンタリズムを天秤にかけた戦意高揚映画となった。1946年に移ったリパブリック映画では、芸術的で質の高い映画を求める社長のもとで『永遠に君を愛す』を撮った。2人の音楽家が別れる甘く感傷的なメロドラマで、製作費は150万ドルから200万ドルと、同社の史上最高になった。1948年の『ムーンライズ』が、この10年の最後の作品となった。
その後、1958年にテレビ映画を1本撮り、1959年にはベストセラー小説の映画化『聖なる漁夫』を監督した。3時間を超える大作が149分まで削られ、興行的に失敗し、1970年代にテレビ放送されるまで公開されなかった。1961年6月19日、癌のためハリウッドで死去した。生前に監督した作品は100本を超える。没後は多くの批評家が過去の遺物のように省みなかったが、近年は若い観客によって、少しずつ再評価が始まっている。センチメンタルでロマンティックなドラマ性が持ち味で、ジョージ・キューカーやダグラス・サークと並ぶ「メロドラマの巨匠」と呼ばれる。
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