伝記
フィリップ・ド・サン=ポルは、1404年7月25日に、ブラバント公アントワーヌとジャンヌ・ド・サン=ポルの次男として生まれた。母は1407年に亡くなった。1415年に、父がアジャンクールの戦いで捕らえられ、殺された。まだ11歳だったフィリップは、母方の祖父ワレラン3世の領地サン=ポル伯領とリニー伯領を受け継いだ。一方、兄のジャンがジャン4世としてブラバント公位を継いだ。兄は当時12歳で、叔父の無怖公ジャンの後見を受けた。
若いフィリップは、アルマニャック派との戦いでブルゴーニュ派に加わり、1417年には叔父の無怖公ジャンとともにパリへ進軍した。ブルゴーニュ派がパリを占領すると、叔父は彼をパリの軍事総督に任じた。1420年ごろ、兄ジャン4世が家臣と対立して亡命を余儀なくされると、フィリップはブリュッセルに入り、総督、のちに摂政となった。ただし、兄に代わって公位に就くことは認めなかった。1421年には兄と和解して摂政を退いた。ブリュッセルの職人たちの反乱を後押しし、都市の名門の家柄より優遇したともいう。1424年ごろからは、ジャン4世と、その妻でエノー、ホラント、ゼーラントの女伯ジャクリーヌ・ド・バヴィエールとの対立に加わった。ジャクリーヌの3番目の夫は、国王ヘンリー5世の弟グロスター公ハンフリーであったが、この遠征は失敗した。
1427年の初め、フィリップは東方へ赴いてイスラム勢力と戦おうとしていた。ところが4月17日に兄ジャン4世が世を去り、フィリップはブラバント公とリンブルフ公を継いだ。1428年には貴族に対して譲歩を行った。従弟のブルゴーニュ公フィリップ善良公の台頭を警戒し、ナポリの対立王ルイ2世・ダンジューの娘ヨランドとの結婚を話し合って、ブルゴーニュ家に対抗しようとした。
1430年8月、フィリップは26歳でルーヴェンにて急死した。ヨランドとの縁組を協議している最中の死であった。馬上試合で巧みな武勇を示しており、兄と違って病気とは無縁と思われていたため、公位の継承をめぐる毒殺説も流れた。しかし現存する記録によれば、少なくとも前の年の5月から重い胃の病を抱えており、胃潰瘍や胃癌などの病状の悪化が死因と見られている。遺体は、父と兄の眠るテルフューレンの聖ヨハネ福音史家教会に葬られた。嫡子はなく、バルバラ・フィーレンスとの間に5人の庶子がいたとされる。ブラバント公位は従兄の善良公が継ぎ、サン=ポル伯領とリニー伯領は、母方の大叔母ジャンヌが継承した。ヨランドは1431年に、ブルターニュ公フランソワ1世と再婚した。
同じ年に亡くなった人物
- ムザッファル・アフマド (1430年)
- アンドレイ・ルブリョフ (1430年没)
- マルガリータ・デ・プラデス (1430年)
- 対立教皇ベネディクトゥス14世 (先代) (1430年)
- クリストフォロ・ブオンデルモンティ (1430年)
同じ地域に関係する人物
- シャルロッテ・フォン・ベルギエン (1927年没)
- Ann Christy (1984年没)
- ゲンマ・フリシウス (1555年没)
- ヤン・ファン・リュースブルク (1381年没)
- Jean Fievez (1997年没)