伝記
オットー・アドルフ・アイヒマンは、1906年3月19日にドイツ帝国西部ラインラントの都市ゾーリンゲンで生まれた親衛隊員で、最終階級は親衛隊中佐である。父アドルフ・カールは電機会社の簿記係で、プロテスタントだった。5人兄弟の長男で、三男は後にスターリングラードの戦いで戦死している。1913年に父が同じ会社の役員となり、一家はオーストリア=ハンガリー帝国のリンツへ移った。母マリアは1916年に32歳で亡くなり、父はすぐに熱心なプロテスタントのマリア・ツァヴァルツェルと再婚した。学校の成績はよくなく、リンツの実科学校を卒業できないまま1921年に退学し、機械工学を学ぶために入った工業専門学校も中退した。のちに鉱山工場や電気製品販売業者で働き、1928年からは石油会社の現地子会社で販売員として約5年半を過ごしたが、不況のため1933年に人員整理で解雇された。
石油会社に勤めていた1932年4月1日にオーストリア・ナチ党に入党し、親衛隊に入隊した。父の事業仲間の息子で弁護士のエルンスト・カルテンブルンナーの薦めだったという。本人はイデオロギーにはさほど興味がなかったようだとされる。1933年夏、オーストリア・ナチ党が禁止されたため、命令でドイツへ派遣され、婚約者のヴェロニカ・リーベルとともにパッサウへ移った。結婚は1935年である。1933年8月から翌年9月までダッハウで訓練を受けたが、軍務の単調さに耐えられず、抜け出す方法ばかり考えていたと後に回顧している。そこで親衛隊情報部の人員募集の噂を聞いて応募し、1934年9月、長官ラインハルト・ハイドリヒに採用された。数か月後にはユダヤ人担当課に移り、以後一貫してユダヤ人問題に携わることになる。
上官に読むよう命じられたテオドール・ヘルツルの著作に強い影響を受け、ドイツ在住のユダヤ人をパレスチナへ移住させる計画に関心を示した。1937年夏には、ハイドリヒの許可を得て上官とともにパレスチナへ向かったが、イギリス当局に入国を拒まれ、成果はほとんどなかった。1938年3月のオーストリア併合後、「ユダヤ人問題の専門家」としてウィーンへ派遣され、没収したロスチャイルド家の邸宅に「ユダヤ人移民局」を開いた。亡命の代償は全財産で、所有物はすべて没収された。同年10月21日の報告書では、着任から9月末までに5万人をオーストリアから追放したと報告している。これを評価したハイドリヒは、1939年1月、ベルリンに「ユダヤ人移住中央本部」を設け、彼は移住の「マイスター」と呼ばれた。ウィーン時代は人生で最良の時代だったと、本人が後に述べている。
1939年9月に国家保安本部が新設されると、ゲシュタポのユダヤ人課の課長に任命され、各地の移住局を統括した。フランス降伏後の1940年10月には、バーデンなどのユダヤ人約7500人を南フランスへ移送させ、うち2000人以上が収容所で病死し、残りもほとんどがポーランドで殺害されたとみられる。マダガスカル島への移住計画の立案にも熱心だったが、実現はしなかった。本人の証言では、1941年8月か9月ごろ、ハイドリヒからヨーロッパのユダヤ人をすべて絶滅させる命令を知らされた。以後、強制収容所への大量移送に指揮的な役割を担った。戦後はアルゼンチンで逃亡生活を送ったが、1960年にモサドに拘束されてイスラエルへ連行された。1961年4月から人道に対する罪などで裁かれ、12月に死刑判決を受け、1962年6月1日未明に絞首刑に処された。
同じ年に亡くなった人物
- マリー・ボナパルト (1962年没)
- エーリヒ・フォン・チェルマク (1962年没)
- アンリ・ワロン (1962年没)
- ウィリアム・クローシャー (1962年没)
- ヴィルヘルム・アッカーマン (1962年没)
同じ地域に関係する人物
- エティエンヌ1世 (ブルゴーニュ伯) (1102年没)
- モーシェ・アレンス (2019年没)
- イミ・リヒテンフェルド (1998年没)
- イツィク・マンゲル (1969年没)
- リア・ラビン (2000年没)