伝記
アブド・エル・クリムは、1880年ごろ(1882年とする資料もある)にモロッコ北部のアジディールで生まれた、スペイン保護領モロッコの反乱指導者であり、第三次リーフ戦争の中心人物である。本名はムハンマド・イブン・アブド・アル=カリーム・アル=ハッターブィーという。リーフ族のうち、山地に住むベニ・ウリアゲル部族の首長の子で、父は裁判官を務める地元の有力者だった。地元の学校で教育を受けたのち、テトゥアンの学院に学び、20歳のころにはフェズのマドラサで2年間学んで、カラウィーン大学にも入学した。弟のムハンマドとともにスペイン式の教育も受け、二人ともスペイン語とリーフ語を流暢に話した。自身はベルベル人だと語ったが、アラブ系の出身とする説もあり、リーフの家には正式な系譜の記録がなく、出自の確定は難しい。
学業を終えると、スペイン語が達者だったためメリリャで働き、スペインの先住民関係の事務所で教師兼通訳となった。1906年から1915年にはスペインの日刊紙『リーフ通信』に関わり、1907年からはアラビア語の記事を書き、ヨーロッパ、とくにスペインの文明と技術が、モロッコの経済や文化の水準を高めうると擁護した。1910年に事務所の秘書兼通訳となり、知性と有能さ、口の堅さで評判を得て、1915年にはメリリャの首席裁判官に任命された。第一次世界大戦の前後にはドイツびいきとして知られ、ドイツに鉱山の権利を得させる仲介を申し出たという。父もリーフでのドイツ・トルコの工作に深く関わっていた。大戦のさなかに逮捕され、1916年に投獄された。
第一次世界大戦後の1919年、スペイン軍のシルベストレ将軍の支配に反抗し、北アフリカの植民地革命運動の一環として、スペイン領モロッコの独立運動を組織しようとした。1920年にスペインがリーフ族を平定しようと軍を送り、第三次リーフ戦争が起こると、抵抗運動の最中に戦死した父の跡を継いだ。1921年7月、リーフ族を率いてアンワールでスペイン軍を襲い、シルベストレ以下1万3000人の損害を与えて将軍を敗死させ、600人以上を捕虜にした。その後、メリリャに迫ったが、包囲は失敗に終わった。1923年2月1日にアジディールを拠点にリーフ共和国を樹立し、自ら大統領となった。
共和国はソビエト連邦や国際共産主義運動の支援を受けて戦いを続け、1924年にはスペイン軍をテトゥアンへ退却させた。この事件でスペインの労働運動は激化し、フランス領モロッコも脅かされたため、1925年4月、フランスはペタン指揮下の軍を派遣した。スペイン軍とフランス軍に挟み撃ちにされ、1926年5月にフランス軍に降伏し、リーフ共和国は崩壊した。戦後、フランスによってレユニオン島に流され、1947年にエジプトに逃れた。1956年にモロッコが独立した後もエジプトにとどまり、1963年2月6日に当地で亡くなった。1927年に『回顧録』が刊行されている。トンネルを近代戦で初めて用いたとされるそのゲリラ戦術は、ホー・チ・ミンや毛沢東、チェ・ゲバラに直接影響を与えたといわれ、カイロ滞在中にはアラブ民族主義の主要な人物の一人にもなった。
同じ年に亡くなった人物
- フランツ・クライン (1962年没)
- ブルーノ・ワルター (1962年没)
- ハンス・ハインリヒ・ラマース (1962年没)
- 竜雲 (1962年没)
- フランツ・カイザー (1962年没)
同じ地域に関係する人物
- アブドルハキーム・アーメル (1967年没)
- ベルナール・リヨ (1952年没)
- ナジク・アル・マライカ (2007年没)
- ムハンマド・アル=ヌクラシ・パシャ (1948年没)
- アリーファ・リファアト (1996年没)