HISTORICAL PERSON · 1962年没

カレン・ブリクセン

20世紀のデンマークを代表するゴシック小説家。デンマーク語と英語で執筆し、英語版ではイサク・ディーネセン名義で作品を発表した。

生涯
1962年没
死亡地
デンマーク(デンマーク首都地域 / カレン・ブリクセン博物館 (デンマーク))
出生地
デンマーク(カレン・ブリクセン博物館 (デンマーク))
出典
世界地図
デンマーク(デンマーク首都地域)

伝記

カレン・ブリクセンは、1885年4月17日にデンマークのルングステッズで生まれ、1962年9月7日に同地で没した小説家である。二十世紀のデンマークを代表する作家で、デンマーク語と英語の両方で執筆し、デンマーク語版には本名のカレン・ブリクセンを、英語版には男性名の筆名イサク・ディーネセンを用いた。2009年まで、デンマークの50クローネ紙幣には、その肖像が使われていた。

裕福な家に生まれ、生まれたときの姓はディーネセンであった。父ヴィルヘルムは軍人で議員でもあり、作家でもあった。梅毒に悩まされた末、カレンが10歳のときに自ら命を絶ったとされる。母はインゲボーグ・ヴェステンホルツといった。姉妹とともにスイスの名門校で教育を受け、幼いころから絵と文章に興味を示した。20代前半には、コペンハーゲンの王立美術アカデミーで学び、パリで絵の修業もし、文芸雑誌に小品を寄せていた。1907年には「オセオラ」の筆名で最初の短編を書いて、デンマークの雑誌に掲載された。ほかの作品はなかなか世に出せず、文学からしばらく離れた。

1913年に父方の親戚でスウェーデン貴族のブロア・ブリクセンと結婚し、翌年夫婦でケニアに移ってコーヒー農園を経営した。結婚してまもなく、夫から梅毒を移され、この病気は生涯の悩みになった。結婚生活は破綻して離婚したが、彼女はひとりで農園を経営した。現地の言葉のスワヒリ語を学び、土地の習慣になじんだ。現地の人々からは「ライオンの姉さん」とあだ名され、その勇気や射撃の腕、狩りの腕で親しまれたという。ナイロビでは、イギリス人の狩猟家デニス・フィンチ・ハットンと出会い、起伏の多い愛情関係を結んだ。1931年にフィンチ・ハットンが飛行機の事故で亡くなり、その年、コーヒーの価格が下がったため、農園を手放してデンマークに戻った。ケニアで住んでいた家は、現在カレン・ブリクセン博物館になっている。

帰国して母の元で暮らしながら、1933年、48歳のときに本格的に作家活動を始めた。『七つのゴシック物語』は出版社探しに苦労したが、兄弟の人脈を頼って、1934年にアメリカで、イサク・ディーネセンの名義で出版され、成功を収めた。デンマーク語版は適当な翻訳者が見つからなかったため自分で用意し、忠実な翻訳ではなく、細部の異なる別の版となった。翌年デンマークで、カレン・ブリクセン名義で発表し、以後、二つの名義を使い分けた。1937年の『アフリカの日々』は世界的な名声をもたらし、のちに映画『愛と哀しみの果て』の原作となった。この本は、デンマークとイギリスで先に出し、アメリカでの出版はその後にした。1939年には、デンマークの女性芸術家に与えられる賞を受けた。同年に母が亡くなって生家の農場を相続したが、アフリカへ戻りたいという思いは、第二次世界大戦に阻まれた。1950年代に入ると体調を崩し、執筆が難しくなったが、ラジオ番組に出るなどの活動は続けた。1958年に『運命譚』を出し、収められた一編は、のち『バベットの晩餐会』として映画化された。死後、住んでいた家は1991年から博物館として一般に公開されている。

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