伝記
ヘルマン・カール・ヘッセは、1877年7月2日、南ドイツのヴュルテンベルク王国のカルフに生まれた。ヘッセ家はエストニアのバルト・ドイツ人の家系である。父カール・オットー・ヨハネスはスイスのバーゼルの宣教師で、母マリーはインド生まれ、ドイツ系スイス人の宣教師ヘルマン・グンデルトの娘であった。ヘルマンは4人の子の2人目である。1881年に両親が布教雑誌の編集のためバーゼルの伝道館に招かれ、一家はそちらへ移った。活発な子供で、4歳頃から詩を作っていた。1886年に母方の祖父のいるカルフに戻り、難関のヴュルテンベルク州立学校の試験に合格して、14歳でマウルブロンの神学校に入ったが、半年で脱走した。両親の知り合いの牧師から悪魔払いを受けたが効果はなく、のちに自殺未遂を図って神経科病院に入院した。退院後に入ったギムナジウムも退学し、本屋の見習い店員になったが3日で逃げ出している。当時の経験が『車輪の下』の原体験になったといわれる。
その後は職を転々としながら作品を書き、1895年からテュービンゲンの書店で店員として働いた。1896年にウィーンの雑誌に投稿した詩「マドンナ」が載り、1899年には最初の詩集『ロマン的な歌』を自費出版した。1904年、27歳のときにマリア・ベルニリと結婚し、3人の子をもうけた。同じ年からボーデン湖畔のガイエンホーフェンに住み、1912年からスイスのベルンに移った。第一次世界大戦中はドイツ人捕虜の救援機関で働いた。この頃の作品はノスタルジックな牧歌的作風が多かった。
1919年の『デミアン』の執筆前後から作風は一変した。大戦の影響などもあって深い精神的危機に陥り、ティチーノ州の小さな村モンタニョーラに落ち着いて、ユングの弟子たちの助けを借りながら回復した。それ以降の作品には、現代文明への強い批判や精神的な問題が多く描かれ、ヘッセはドイツ文学を代表する作家に押し上げられた。1924年にルート・ヴェンガーと結婚して3年後に離婚し、同年にスイスに帰化した。1931年にはニノンと結婚し、二人は長年モンタニョーラで暮らした。平和主義を唱えたヘッセの作品は、ナチス政権から「時代に好ましくない」とされ、ドイツ国内で紙の割り当てを禁止された。1946年に『ガラス玉演戯』などが評価されてノーベル文学賞とゲーテ賞を受け、翌47年に生まれ故郷カルフの名誉市民となり、アンドレ・ジッドの訪問も受けた。風景や蝶の水彩画を好み、自分の絵を添えた詩文集も出している。幼い頃から病弱だったため、一時は菜食主義やヌーディズム、禁酒禁煙を旨とする生活運動を実践したこともある。
1962年8月9日、43年間を過ごしたモンタニョーラの自宅で死去し、サン・アッボンディオ教会に葬られた。85歳であった。カルフ、ガイエンホーフェン、モンタニョーラには、記念のヘッセ博物館がある。日本でも「少年の日の思い出」(1931年)が知られ、1947年発行の国定教科書に載って以来、長く中学校の国語教科書に採られている。父ヨハネスは、内村鑑三の『代表的日本人』を1908年に初めてドイツ語に訳した人物でもあり、ヘッセ自身も7歳の頃、父の伝手で新島襄に会っている。
同じ年に亡くなった人物
- 田邊元 (1962年没)
- ルイーズ・ファゼンダ (1962年没)
- ペル・トーレン (1962年没)
- ルドウィッヒ・ベーメルマンス (1962年没)
- マックス・ファスマー (1962年没)
同じ地域に関係する人物
- フランツィスカ・ツー・レーヴェントロー (1918年没)
- S・マダリアーガ (1978年没)
- アルフレート・アンデルシュ (1980年没)
- ゲオルグ・カイザー (1945年没)
- マルコム・マクラーレン (2010年没)