伝記
トーマス・ジョン・ミッチェルは、1892年7月11日、アメリカのニュージャージー州エリザベスで、アイルランド移民のジェームズ・ミッチェルとメアリー・ドネリーの子として生まれた。父と兄はともに新聞記者で、一家はジャーナリストや地域の有力者を輩出していた。甥のジェームズ・P・ミッチェルは、のちにアイゼンハワー政権の労働長官を務めている。セント・パトリック高校を卒業すると、自身も新聞記者となったが、特ダネを追うことより、演劇の寸劇を書くことのほうがずっと好きだと気づいた。地元の新聞社に勤めたのち劇作家となり、1913年に俳優になることを決意する。名優チャールズ・コバーンの一座に加わり、シェイクスピア作品で舞台経験を積み、1916年にブロードウェイで俳優としてデビューした。1920年代にはブロードウェイで主役を演じながらも書くことをやめず、共作の戯曲『リトル・アクシデント』(1928年)は、のちにハリウッドで3度映画化された。
脚本家として映画界に入り、フレドリック・マーチ主演の作品(1934年)をはじめ、いくつかの脚本を手がけたのち、コロムビア映画と契約して、1936年の『クレイグの妻』で映画俳優としてデビューした。厳密には1923年のサイレント映画が最初の出演作とされるが、その後この作品まで映画には出ていない。突破口となったのは、フランク・キャプラ監督の『失はれた地平線』(1937年)での横領犯の役である。続く『ハリケーン』ではアカデミー助演男優賞にノミネートされた。1936年から46年の10年間に、出演した59本のうち43本が作られた。1939年は特に当たり年で、『駅馬車』『スミス都へ行く』『コンドル』『風と共に去りぬ』などに重要な脇役で出演した。『駅馬車』の酔いどれのブーン医師でアカデミー助演男優賞を受け、受賞の挨拶では「自分がそんなに上手いとは知らなかった」と冗談を言った。『風と共に去りぬ』では、スカーレット・オハラの父を演じている。その後も『スイスのロビンソン』(1940年)、『天国の鍵』(1944年)、『真昼の決闘』(1952年)の町長、『素晴らしき哉、人生!』(1946年)のビリー叔父など、幅広い役を演じた。
1950年代から60年代初めにかけては、主にテレビで活躍し、エミー賞を受けた。1953年にはミュージカル『ヘイゼル・フラッグ』の演技でトニー賞のミュージカル主演男優賞を受け、アカデミー賞、エミー賞と合わせて3つの賞を受けた最初の俳優となった。1950年代半ばには、オー・ヘンリーを演じるテレビシリーズに出て、そのはまり役ぶりから、高校の英語の授業を訪ねるよう頼まれ、全米の高校を巡るツアーにも出た。最後の映画出演は、キャプラ監督の『ポケット一杯の奇跡』(1961年)であった。最後の舞台は1962年の『殺人処方箋』で、ジョゼフ・コットンが演じる犯人を追い詰めるコロンボ刑事を演じた。主役のコットンを食うほどの人気だったという。テレビドラマ化が計画されたが、彼の死去のため、ピーター・フォークが代わりに起用された。
同年12月17日にフィラデルフィアの公演先で倒れ、癌のため、ビバリーヒルズの自宅で70歳で死去した。ウォルター・ブレナンと並ぶ黄金時代の名脇役で、ハリウッド・ウォーク・オブ・フェームには、映画とテレビの両分野で星がある。
同じ年に亡くなった人物
- ベニー・パレット (1962年没)
- オーウェン・D・ヤング (1962年没)
- パウル・ゲッツ (1962年没)
- ルドルフ・フォン・ビュノー (1962年没)
- リカルド・ロドリゲス (レーサー) (1962年没)
同じ地域に関係する人物
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- ジェリー・シーゲル (1996年没)
- ジョージ・モンゴメリー (2000年没)
- ジュディス・アンダーソン (1992年没)
- ビリー・ワイルダー (2002年没)