HISTORICAL PERSON · 1963年没

ジョン・F・ケネディ

アメリカ合衆国の第35代大統領。1960年の大統領選で共和党のニクソンとの接戦を制し、在任中の1963年にダラスで暗殺された。

生涯
1963年没
死亡地
アメリカ合衆国(テキサス州 / パークランド記念病院)
出生地
アメリカ合衆国(ブルックライン)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(テキサス州)

伝記

ジョン・フィッツジェラルド・ケネディは、1917年5月29日にマサチューセッツ州ブルックラインで、アイルランド系移民で実業家のジョセフ・P・ケネディ・シニアと、ローズ・フィッツジェラルドの次男として生まれた政治家である。名は、ボストン市長を務めた母方の祖父ジョン・F・フィッツジェラルドにちなむ。ケネディ家は1848年に曽祖父パトリックが、イギリス領だったアイルランドでの差別とジャガイモ飢饉を逃れてアメリカを目指したことに始まり、祖父パトリック・ジョセフは港湾労働者から実業家となって、州議会議員を務めた。ジョンには4男5女の兄弟があり、兄のジョセフ・ジュニアは成績もスポーツも抜群で、弟のジョンは劣等意識を抱いたとされる。

幼い頃から原因不明の病気にたびたびかかり、病弱な子供だった。生まれつき背骨に障害があり、しばしば激しい苦痛に襲われたという。10歳の時に一家はニューヨーク郊外へ移り、13歳でコネティカット州の寄宿学校に入ったが、体調を崩して翌年には家に帰された。兄のいたチョート校に転校したのちは、反抗的な生徒として知られ、「モッカー」というあだ名をつけられ、放校になりかけたこともある。1935年にチョート校を卒業してロンドンに渡ったが、すぐに体調を崩して帰国し、プリンストン大学にも6週間在学しただけだった。のちに副腎機能不全で苦しむことになるが、のちの顧問ソレンセンは、病気との闘いが彼に反抗心を植えつけたと述べている。1936年に父の尽力で兄のいたハーバード大学に入学し、在学中に父が駐英大使に任命されたこともあって、2度ヨーロッパを旅行した。1940年にはミュンヘン会談を扱った卒業論文を書き、これが『英国は何故眠ったか』として出版されて、イギリスとアメリカで8万部が売れた。1940年6月に優等で卒業している。

陸軍士官候補学校と海軍の受験には健康状態を理由に合格できなかったが、父の手配で海軍士官のコースに入り、1941年9月25日に海軍士官に任官された。その後、戦後に政界へ進み、1960年の大統領選挙で民主党の候補として指名され、共和党のリチャード・ニクソンと歴史的な接戦の末にわずかな票差で破って当選した。1961年1月20日に第35代大統領に就任したときは43歳で、選挙で選ばれた大統領としては最年少であり、20世紀生まれの最初の、またカトリック教徒として初めての大統領であった。

在任中にはキューバ危機や米ソの宇宙開発競争、公民権運動の高まりなどの事件があり、とくにキューバ危機の対応では、第三次世界大戦や全面核戦争の危機を回避したと評価する声が多い。一方で、選挙での不正やマフィアとの関係、複数の相手との不倫、ピッグス湾事件やベルリンの壁の建設での優柔不断な態度、ラテンアメリカへの干渉、ベトナム戦争の拡大や枯葉剤の散布に対する批判もある。36歳で結婚した妻ジャクリーンとの間には、キャロライン、ジョン・ジュニア、パトリックの3人が生まれたが、末子のパトリックは2日後に亡くなった。1963年11月22日、テキサス州ダラスでパレード中に暗殺された。逮捕されたオズワルドは2日後に射殺され、事件は陰謀説など数々の謎に包まれたまま歴史に残った。

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