伝記
ロベール・シューマンは、1886年6月29日にルクセンブルク市のクローザンで生まれた政治家である。ルクセンブルクで生まれ、ドイツで育って学び、フランス領となったあとにフランスの政界に入り、やがてフランスの首相、外相になった。独仏和解、ヨーロッパ和解を象徴する人物とされ、欧州連合の父の一人とみなされている。父ジャン=ピエールはロレーヌ地方エヴランジュの生まれのフランス市民だったが、1871年にロレーヌがドイツ帝国領になるとドイツ国民となった。母ウジェニー・デュランはルクセンブルク人で、結婚してドイツ国民になった。シューマンは一人っ子で、血統によりドイツ人となり、アルザス=ロレーヌが第一次世界大戦でフランスに返ると、1919年、33歳でフランス国籍を取得した。母がルクセンブルク語を話したため、第一言語はルクセンブルク語とドイツ語で、フランス語は学校で習っただけだったので、ドイツ語訛りのフランス語を話した。
中等教育はルクセンブルクのアテネ中等学校で受けたが、ここの卒業証書はドイツでは通用しないため、ロレーヌのメッツで大学入学資格を取った。大学教育はドイツの制度で受け、ボン、ミュンヘン、ベルリンの各大学で学んでから、ストラスブール大学で学位を得た。1911年に母が交通事故で亡くなると、一時は宗教生活も考えたが、信徒として生きることにし、生涯を独身で過ごした。メッツで弁護士として開業し、第一次世界大戦ではドイツ陸軍に入るには不適当と判断され、ドイツ側の行政の仕事に就いた。大戦が終わるとフランス政界で活動を始め、1919年にティオンヴィユの地方議会議員に初めて選ばれた。ロレーヌの製鉄業における戦後の汚職を根気よく調べたことでも知られる。議会の選挙には、アルザス=ロレーヌの宗教上の特例を守ろうとするカトリック勢力に推されて立った。1919年にドイツ軍に属していたことを非難されたときには、「彼らのために祈るほうが、呪うよりよい」と答えて議場を去ったという。
1939年から1940年にかけて、友人や周囲に独仏和解を語り続けていた。1940年には国会議員としてペタンへの全権委任に賛成票を投じた。第三共和政が崩壊するとナチス当局に逮捕され、大管区指導者ビュルケルの私邸に設けられた牢獄に移されたが、1942年に脱獄した。戦後は財務大臣になり、1947年から1948年まで短期間、首相を務め、のちに外務大臣となった。ドイツ語訛りのフランス語を話す彼が首相、外相になったことは、独仏和解を象徴するような出来事でもあった。
1949年に訪米した際には、国務長官アチソンから西ドイツの政治的転換を促す提言を求められた。1950年5月1日にジャン・モネから原案を渡され、5月9日、独仏間の緊張の主な原因を取り除くため、石炭と鉄鋼業を共同で運営するよう呼びかけた。これがシューマン宣言で、欧州石炭鉄鋼共同体の基礎となり、のちに欧州連合へ発展した。5月9日はヨーロッパ・デーとなっている。のちに司法大臣を務め、欧州議会の前身の議長にもなって「欧州の父」と称えられ、1958年にはカール大帝賞を受けた。謙虚で地味な、宗教的な生活に徹した人物で、1963年9月4日に亡くなった。2004年には、列福に向けた調査の完了が発表された。
同じ年に亡くなった人物
- ナデジダ・マウントバッテン (ミルフォード・ヘイヴン侯爵夫人) (1963年没)
- チャールズ・ウィンスロー (1963年没)
- エリック・ルンドクヴィスト (1963年没)
- ドナルド・リッピンコット (1963年没)
- ウーゴ・チェルレッティ (1963年没)
同じ地域に関係する人物
- フランツ・ヨーゼフ1世 (リヒテンシュタイン公) (1781年没)
- ヨハン2世 (プファルツ=ツヴァイブリュッケン=フェルデンツ公) (1635年没)
- Jules Bocande (2012年没)
- ジャン・ムーラン (1943年没)
- クリストフ2世 (バーデン=ローデマヒェルン辺境伯) (1575年没)