HISTORICAL PERSON · 1440年没

マソリーノ

ルネサンス初期イタリアの画家。マザッチオとともにフィレンツェのブランカッチ礼拝堂壁画を手掛け、国際ゴシック様式を残しつつ過渡期を代表した。

生涯
1440年没
死亡地
イタリア共和国(フィレンツェ県 / フィレンツェ)
出生地
イタリア共和国(パニカーレ)
出典
世界地図
イタリア共和国(フィレンツェ県)

伝記

マソリーノ(マゾリーノとも)は、イタリアのルネサンス期の画家で、ゴシックとルネサンスの過渡期に位置する人物である。本名はトンマーソ・ディ・クリストファノ・フィーニといい、画家としては通称のマソリーノ・ダ・パニカーレの名で呼ばれる。1383年に、パニカーレで生まれたとされる。同時代のマサッチオの革新性とは対照的に、その作風は「国際ゴシック様式」の流れをくんでいる。

最初の40年ほどの生涯は、はっきりしない。生まれた場所も議論があり、ヴァザーリは「ヴァルデルサのパニカーレ」とするが、そのような地名の場所は見つかっていない。ウンブリア地方の研究者は、ウンブリアのパニカーレで生まれたと主張する。父クリストファノ・フィーニは、ヴァザーリが「画家」と記した人物で、長く息子のそばにいて、家賃や契約書、税の申告、組合への登録など、あらゆる手続きを引き受けた。修業については、ゲラルド・スタルニーナの工房で学び、のちに彫刻家ロレンツォ・ギベルティ(フィレンツェの洗礼堂「天国の扉」の作者)のもとにも出入りしたとされ、1403年から1407年ごろ、ギベルティの助手の1人だったと思われる。確かな情報は1422年に始まり、この年フィレンツェに移って家を借りた。翌1423年、40歳のとき、医者・薬種商の組合に画家として登録した。マサッチオは、その1年前の1422年に加わっていた。ブレーメンにある『聖母子』は、この時期の作で、台座に2つの家の紋章と1423年の年記がある。

1424年、フェリーチェ・ブランカッチの注文を受け、マソリーノはフィレンツェのサンタ・マリア・デル・カルミネ聖堂のブランカッチ礼拝堂の壁画を、マサッチオとともに描き始めた。マソリーノは1425年から1427年ごろまでハンガリーに滞在したため、制作は中断されたが、1427年に再開した。マサッチオは1428年、27歳の若さで早世した。その後、マソリーノはフィレンツェを足場に、ローマや北イタリアでも制作した。1435年には、ブランダ・ダ・カスティリオーネ枢機卿の注文で、北イタリアのカスティリオーネ・オローナの洗礼堂に、『洗礼者ヨハネ伝』の連作壁画を描いた。『ヘロデの宴』と『キリストの洗礼』が代表作として知られる。

これらの作品は、18歳年下で、共同制作も多かったマサッチオの作品のような革新性には欠け、遠近法の応用にもややぎごちなさがある。しかし、平明な構図と温和な色彩が醸し出す静かで叙情的な画面には、見るべきものがある。『受胎告知』(ワシントンのナショナル・ギャラリー)や『謙譲の聖母』(ミュンヘンのアルテ・ピナコテーク)も知られている。フィレンツェの大聖堂に残る、1440年の年記のある故人名簿にマソリーノの名があることから、この年までには亡くなっていたと思われる。1447年ごろに亡くなったとする説もある。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物