伝記
ピエール・コーションは、1371年ごろに生まれ、1442年12月18日に没したフランスの聖職者である。ブルゴーニュ派で親イングランド派の聖職者として出世し、1431年2月から5月にかけてのジャンヌ・ダルクの異端審問で裁判長を務めた。
ランスに生まれたが、出自は定かでなく、農民の子とも、ランスに移住した貴族の家柄の子ともいわれる。後のイングランド王ヘンリー6世の秘書ジャン・ド・リネルが甥にあたることだけは分かっている。教会法学士としての法律の知識と弁論術が評価され、パリ大学学長、ランスとボーヴェの参事会員などを歴任した。パリではブルゴーニュ公ジャン無怖公の取り巻きの一人となり、1413年の騒乱では首謀者の一人として下層民を扇動した。このため、同年9月27日にベルナール7世がパリに入城すると、パリから追放された。1414年から1418年のコンスタンツ公会議には、公の命でブルゴーニュ派として出席し、オルレアン公ルイの暗殺を正当化するジャン・プティの説を支持した。のちには、シャルル皇太子(シャルル7世)の王位継承権を否定するトロワ条約の起草にも、甥とともにあたり、条約を守る誓約人も務めた。1420年にボーヴェ司教となった。
1429年5月にジャンヌ・ダルクがオルレアンを解放し、7月にシャルル7世をランスに導いたとき、コーションはランスにいたが、フランス軍の接近を聞いてボーヴェへ逃げ帰り、さらにルーアンへ逃れた。1430年5月にジャンヌがコンピエーニュで捕らえられると、コンピエーニュはボーヴェ司教の管轄だったため、彼はその資格に基づいて、イングランドが彼女を買い取れるよう尽力し、自らを裁判長とする異端裁判にかけることに成功した。1431年1月、ヘンリー6世の書簡でジャンヌの身柄がコーションに引き渡されたが、条件付きであり、有罪判決が出なければイングランドが独自に処断するとも付されていた。第一回公開審理は2月21日に開かれ、ジャンヌは、神が自分に与えた啓示は王シャルルにしか打ち明けられないと答えた。3月31日には独房で非公開の審理が行われ、コーションは教会への服従について質問した。4月5日には12箇条の罪状を作成した。5月24日、ジャンヌは火刑台のあるサン・トゥーアン墓地に連れていかれ、判決文が読まれるさなかに、教会の命令に従うと叫んで回心文に署名した。しかし5月27日に再び男物の服を着ているという報告があり、5月29日にコーションは、戻り異端にあたるとして、世俗の権力であるイングランドに引き渡すことを決議した。ジャンヌは翌30日に火刑に処された。
裁判ののちも、コーションはイングランド派の聖職者として動き、1431年12月16日にパリで開かれたヘンリー6世のフランス王戴冠式にも臨席した。1433年には、オルレアン公シャルルの釈放の交渉のためカレーに派遣され、1435年にはバーゼル公会議に出席した。1436年にシャルル7世がパリを奪還するとルーアンへ逃れ、1442年12月18日に同地で死去して、司教を務めたリジューの聖堂に葬られた。ジャンヌの復権裁判のときには、すでにこの世になく、遺族が代訴人を通じて、一切の責任はイングランドにあると述べた。1931年に、聖堂の工事中に偶然に遺体が発見されたが、墓標はなく、埋め戻された。
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