伝記
エウゲニウス4世は、1383年にヴェネツィアの裕福な商人の家に生まれた。本名はガブリエッロ・コンドゥルマーロである。父はアンジェロ・コンドゥルマーロ、母はバリオーラ・コッレルといい、姉妹のポリッセーナの子がのちの教皇パウルス2世になる。最初の教育は母方の伯父で司教のアンジェロ・コッレルの監督下で受けたとされる。1400年には友人たちとともに、故郷の町にアウグスティノ会系の律修参事会「サン・ジョルジョ・イン・アルガ」の共同体を設け、1404年11月に教皇の承認を得た。
もう一人の伯父が教皇グレゴリウス12世であり、その引き立てで出世の道が開けた。1407年12月30日、24歳でシエナ司教に任じられたが、司教に叙階される最低年齢に満たず、伯父から特別の許可を受けている。シエナの有力者は若く、しかも外国人である司教に異を唱えたため、翌1408年に辞任し、使徒座財務院の聖職者・使徒座書記官となった。同年5月9日には枢機卿に任じられた。コンスタンツ公会議にも枢機卿として参加し、1420年にアンコーナ辺境領の教皇使節、1423年にボローニャの教皇使節となり、1427年にはマルティヌス5世からサンタ・マリア・イン・トラステヴェレ教会の枢機卿司祭に任じられた。
1431年2月にマルティヌス5世が急死すると、3月1日に始まったコンクラーヴェで3日に全会一致で選ばれ、3月11日にサン・ピエトロ大聖堂の階段で戴冠した。選出前の取り決めにより、教会収入の半分を枢機卿に分配し、重要事項は枢機卿に諮ると誓っている。就任直後、前教皇の一族で城や領地を与えられていたコロンナ家に強硬な措置をとって対立し、1434年にはローマを追われてフィレンツェなどに逃れ、1443年まで帰還できなかった。一方でローマ・ラ・サピエンツァ大学の再建、ラテラノ宮殿の改修、城壁や橋の修復など、都市の復興にも力を注いだ。
在位中最大の問題は、1431年にバーゼルで開かれた公会議との争いである。教皇は公会議の解散を命じたが、公会議はこれに抵抗し、皇帝ジギスムントの調停で決裂は辛うじて避けられた。ジギスムントは1433年5月に教皇から皇帝として戴冠を受けている。1438年、東ローマ皇帝ヨハネス8世がオスマン帝国への対抗を求めて西方を訪れたのを機に、教皇は公会議をフェラーラへ移した。バーゼルに残った公会議派はサヴォイア公アメデーオ8世を選び、対立教皇フェリクス5世とした。フェラーラの公会議は疫病のためフィレンツェへ移り、メディチ家のコジモの支援を受けて東西教会の合同と教皇首位説が決議されたが、東方教会側は十字軍が組織されないことに失望して合同を取り消した。1444年にはヴァルナの戦いで十字軍がオスマン帝国軍に敗れ、ポーランド兼ハンガリー王ヴワディスワフ3世が戦死している。
先住民や奴隷の問題では、1435年1月13日にフィレンツェで勅書を出し、カナリア諸島の先住民の奴隷化を禁じた。ユダヤ人については当初その権利を守る勅令を出したが、1442年の勅書は、のちにゲットー設置の法的根拠として使われた。エウゲニウス4世は1447年2月23日に世を去った。背が高く痩せた愛想のよい容貌だったと伝えられ、多くの困難は気配りの欠如による面もあったとされる。
同じ年に亡くなった人物
- ヴラド2世 (1447年没)
- ヘンリー・ボーフォート (枢機卿) (1447年没)
- ルートヴィヒ7世 (バイエルン公) (1447年没)
- ハンフリー・オブ・ランカスター (1447年没)
- ミルチャ2世 (1447年没)
同じ地域に関係する人物
- エリュー・ヴェッダー (1923年没)
- ジュゼッペ・トマージ・ディ・ランペドゥーサ (1957年没)
- オレスト・キプレンスキー (1836年没)
- Fiorenzo Bava-Beccaris (1924年没)
- カルメロ・ベネ (2002年没)