HISTORICAL PERSON · 1450年没

世宗 (朝鮮王)

李氏朝鮮の第4代国王。太宗の三男で、1418年に譲位を受け、1422年から親政を行った。集賢殿を設置して学問や文化・技術を振興し、ハングルを創製した。朝鮮通宝の鋳造や田税制度の制定も行った。

生涯
1450年没
死亡地
大韓民国(Q97205845)
出生地
大韓民国(ソウル特別市 / 通仁洞)
出典
世界地図
大韓民国(ソウル特別市)

伝記

世宗は、1397年5月7日に生まれた李氏朝鮮の第4代国王である。第3代国王太宗の第3王子で、母は元敬王后閔氏、即位前は忠寧大君と呼ばれた。1406年に成人すると忠寧大君に封じられ、沈氏(のちの正妃・昭憲王后)と結婚した。健康問題を抱えた父の太宗は何度か譲位を考えたが、外戚との確執や長男譲寧大君の奔放な性格が障害となって実現しなかった。1418年、太宗は譲寧大君から世子の資格を奪い、三男の世宗に譲位した。即位当初の4年間は上王となった太宗が軍事権など政治の実権を握り、1422年に太宗が没して、ようやく世宗の親政が始まった。

親政のもと、宮中に学問研究所として集賢殿が設けられた。若く有望な儒学者らを採用して特権を与え、王の政策諮問機関として朝鮮の文化と文治主義の発展の原動力になり、世宗は学士たちとともに広い分野の編纂事業を主導した。1425年には朝鮮通宝を鋳造して貨幣経済の浸透を試み、高麗以来の税法である踏験損実法を廃止し、1436年に貢法詳定所を置いて田税制度を定めた。1437年には自身の健康問題もあり、六曹直啓制を議政府署事制に改めて王の負担を軽くし、権力を分散させた。政策の賛否を問うため十数万人に一種の世論調査を行い、奴婢が妊娠すれば妻に130日、夫に30日の出産休暇を与えるよう命じたとも伝えられる。能力があれば奴婢出身でも官職を与え、代表例が蔣英実である。

最もよく知られる功績は、1446年に制定した表音文字の訓民正音、のちのハングルである。漢字の読み書きができない民を哀れんだ世宗が創ったとされ、序文には、言いたいことがあっても書き表せない愚かな民を憐れみ、新たに28文字を定めたと記される。漢字こそ唯一の文字だと考える重臣や、知識を独占したい両班は反対し、この件が宗主国の明に伝わり、朝鮮が反逆を企てていると怒りを買ったともいわれる。世宗は、これは文字ではなく漢字に不慣れな民に発音を教える記号にすぎないと述べ、反逆の意思はないと強調して制定を断行したという。ほかにも、1432年に王立天文台の簡儀台を置いて天体観測器を作らせ、1441年には蔣英実が測雨器を発明したとされる。銅活字の改良や、『農事直説』『医方類聚』などの編纂、朴堧による雅楽の整備も行われた。仏教には廃仏政策をとり、宗派を禅教の2宗派に統合し、18か寺を除いてすべてを破却したが、ハングルで書かれた『釈譜詳節』の刊行は認めた。

対外関係では、1419年に倭寇の取り締まりをめぐる対立から対馬を攻撃したが、これは実権を握る太宗の意向が反映していたとされる。その後は外交的解決に重きを置き、1428年・1439年・1443年に通信使を派遣し、三浦を開港して1443年に宗氏と嘉吉条約を結んだ。北方では金宗瑞らに命じて六鎮四郡を設け、国境の守りを固めた。一方で、明に対し多くの処女を貢女として送ったこと、奴婢に関する法の制定などは批判もされている。

晩年は病気がちとなり、抑えていた仏教にすがるようになった。1450年、53歳で世を去り、昭憲王后とともに献陵に合葬され、1469年に驪州の英陵へ移された。儒教の理想とする王道政治を行った聖君として、韓国では子供から老人まで広く敬われ、「海東の堯舜」と称された。廟号は単に世宗だが、聖君として尊敬する意味で世宗大王とも呼ばれる。昭憲王后との間の子には、第5代国王となった文宗や、のちに世祖として即位する首陽大君がいる。

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