伝記
フェリクス5世は、歴史上最後の対立教皇で、在位は1439年11月5日から1449年4月7日までである。俗人としてはサヴォイア家当主のアメデーオ8世で、第19代サヴォイア伯(在位1391年から1416年)となり、のちにサヴォイア公に昇った(在位1416年から1440年)。1383年9月4日にシャンベリ城で、サヴォイア伯アメデーオ7世と、ベリー公ジャンの娘ボンヌ・ド・ベリーの長男として生まれた。幼いころはリパイユ城で過ごし、祖母ボンヌ・ド・ブルボンが音楽への愛好の源になったとされ、母は写本に親しませた。
1391年、父が狩りの最中に落馬して重傷を負い、11月2日に亡くなった。アメデーオは8歳で伯の位を継いだ。遺言では後見が祖母ボンヌ・ド・ブルボンに任されていたため、母との間に激しい対立が起こった。2人の弟をはじめ、サヴォイア家の男子の縁者の多くが亡くなり、アメデーオは青年期にサヴォイア家唯一の男子となった。親政を始めた彼は、一族内で分割されていた領土を次々と当主の直轄領に戻し、サヴォイアを強力で集権的な国家に育てた。1401年にはジュネーヴ伯領を手に入れ、同年アラスで、ブルゴーニュ公フィリップ豪胆公の娘マリー・ド・ブルゴーニュと結婚した。マリーがサヴォイアに着いたのは1403年だった。2人のあいだには9人の子が生まれ、5人が成人した。
外交にも長け、百年戦争のさなか、フランス王、イングランド王、神聖ローマ皇帝のあいだを巧みに立ち回り、1416年に皇帝ジギスムントからサヴォイア伯領を公国に昇格された。「温和公」と呼ばれ、治世のあいだサヴォイアでは戦いが起こらなかったとされる。2万人の軍を持ちながら、征服のためではなく外交の後ろ盾として使った。1418年にはピエモンテ公国が戻り、1419年にはニース伯領の編入が確定した。妻に先立たれたことなどもあって、1434年にリパイユに引きこもった。
1431年にバーゼル公会議が始まると、教皇エウゲニウス4世に批判的な公会議主義者と、教皇側が対立した。1437年に教皇側が公会議をイタリアへ移すと発表して、公会議は分裂し、バーゼルに残った急進派は、教皇権を超える公会議の権威を主張し、エウゲニウス4世の退位を宣言して、アメデーオ8世を新しい教皇に推挙した。1439年、彼は諸侯の要請に応じてフェリクス5世として教皇に選ばれた。サヴォイア公の紋章に教皇冠を加えた紋章を定め、教皇の衣服と杖を身につけた。翌1440年に公位を子のルドヴィーコに譲った。
その後、両教皇と両公会議の対立が続いたが、バーゼル公会議は思想の過激さから信用を失い、1443年には財政難でサヴォイア公国領のローザンヌへ移った。支持した諸侯も次第に離れた。1449年にニコラウス5世がバーゼル公会議の閉会を宣言すると、フェリクス5世も従い、4月7日に教皇位の請求を放棄して、世俗の君主に戻った。1451年1月7日にジュネーヴで亡くなった。のちの教皇ピウス2世となる秘書のピッコローミニは、彼を「新しいソロモン」と評した一方、のちの教皇たちは、教会に背いた不信心者と批判する言説を残した。
同じ年に亡くなった人物
- エリーザベト・フォン・ゲルリッツ (1451年没)
- アブドゥッラー (ティムール朝) (1451年没)
- Sultan Muhammad bin Baysonqor (1451年没)
- ムスタクフィー2世 (1451年)
- シュテファン・ロッホナー (1451年没)
同じ地域に関係する人物
- ジャン・ミューラー (1896年没)
- ジャン・カルヴァン (1564年没)
- エルネスト・アンセルメ (1969年没)
- アリー・カーフィー (2013年没)
- カルロッタ・グリジ (1899年没)