HISTORICAL PERSON · 1453年没

ウルバン (技術者)

トランシルヴァニア出身の技術者。ビザンツ帝国に断られた巨砲製造の申し出をオスマン帝国が受け入れ、コンスタンティノープル攻略に使われたバシリカ砲を製造した。

生涯
1453年没
死亡地
トルコ共和国(イスタンブール県 / コンスタンティノープル)
出生地
ルーマニア(ブラショヴ)
出典
世界地図
トルコ共和国(イスタンブール県)

伝記

ウルバンは、オルバン、オルバーンとも呼ばれる、ハンガリー王国のトランシルヴァニアにあるブラッショー、現在のルーマニアのブラショヴの出身の技術者である。1453年のコンスタンティノープル包囲戦で、オスマン帝国軍に、バシリカ砲、ウルバン砲と呼ばれる巨大な射石砲を提供したことで知られる。大砲の鋳造を専門とした。

出自については意見が分かれる。現代の歴史家の多くは、ウルバンがマジャル、すなわちハンガリー人だったと考えている。一部には、ドイツ人の血を引くとする説もある。また別の可能性として、ワラキア人だったとする説もあり、ビザンツの歴史家ラオニコス・ハルココンディリスは、彼を「ダキア人」と説明している。

1452年、ウルバンは、巨大な大砲を造る申し出をして、ビザンツ帝国に仕えようとした。しかし皇帝コンスタンティノス11世パレオロゴスは、高額の給料も、巨砲を作るための材料も用意できなかった。そこでウルバンはコンスタンティノープルを去り、この都市の攻略を目指していたオスマン帝国のスルターン、メフメト2世に接近した。ウルバンは、自分の大砲があればバビロンの城壁でも吹き飛ばせると宣伝し、メフメト2世から、十分な資金と材料を与えられた。ウルバンは、アドリアノープルで3か月かけてバシリカ砲を製造し、コンスタンティノープルへ運んだ。運搬には、60頭の雄牛が使われたとも、15対の雄牛と100人の一団が使われたともいわれる。この間にも、ウルバンはオスマン帝国軍のために、より小さな大砲を造っている。この大砲は、オスマン帝国によるコンスタンティノープルの攻略に欠かせないものとなった。

射石砲の製造技術は、主にドイツの技術者が育てたもので、最初にハンガリー軍が導入し、西ヨーロッパ全土に広まって、攻城戦のやり方を大きく変えた。当時の巨砲としては、ドゥレ・グリエット、モンス・メグ、プンハルト・フォン・シュタイアーなどが知られ、現存するものもある。しかしバシリカ砲は、コンスタンティノープルの攻撃中に暴発して壊れ、製作者のウルバンと助手たちも、この爆発に巻き込まれて死亡したとされる。当時、射石砲の爆発事故は珍しくなかった。

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