伝記
ジョン・タルボットは、1387年ごろ(1373年とも1390年ごろともいわれる)に生まれ、1453年7月17日に没した、初代シュルーズベリー伯爵である。イングランドの貴族で軍人であり、百年戦争中のイングランド軍の主要な指揮官の1人であった。「フランス人の恐怖」と呼ばれた。イングランドのシュロップシャーに生まれ、父は第4代リチャード・タルボット、母はアンカレットで、夫妻の次男にあたる。兄にギルバートがいる。
1404年から1413年にかけて、兄ギルバートとともにウェールズの反乱やウェールズ方面の戦争に従軍した。1406年3月12日に、モード・ネヴィルと結婚し、4人の子が生まれた。1413年3月にヘンリー5世が即位した際、一時逮捕されてロンドン塔に投獄されたが、すぐに釈放された。1414年2月から5年間、アイルランド総督を務めたが、オーモンド伯と対立し、アイルランドでの苛烈な統治や、ヘレフォードシャーでの残虐行為によって告訴された。1418年に兄が亡くなり、その娘も1421年に幼くして亡くなったため、ジョンはタルボット男爵位とストレンジ男爵位を継いだ。1420年から1424年にかけてフランスに派遣され、1424年8月のヴェルヌイユの戦いで指揮をとり、その戦功でガーター騎士団の騎士に叙せられた。1425年9月6日にはマーガレット・ビーチャムと再婚し、5人の子が生まれた。
1427年に再びフランスへ渡り、舅のウォリック伯の指揮のもとでモンタルジの戦いに加わったが、敗れた。1428年にはラヴァルやル・マンの奪取に貢献し、ロエアック領主アンドレ・ド・ラヴァルを捕虜とした。オルレアン包囲戦では、司令官ソールズベリー伯が11月に戦死すると、指揮官の1人として活躍したが、1429年5月にジャンヌ・ダルクの率いるフランス軍にオルレアンを解放されて敗走した。援軍と合流してボージャンシーの救援に向かったが間に合わず、6月18日のパテーの戦いで惨敗して捕虜となった。4年間の虜囚ののち、1433年に、フランス軍の指揮官ザントライユとの人質交換で解放された。
解放後も多くの町をフランスから奪回し。1436年1月にはルーアン近くで、ラ・イルとザントライユの軍を敗走させた。1437年にはクロトワで、ソンムの町を通ってブルゴーニュの兵を敗走させ、1439年12月には、奇襲によってリッシュモン元帥の6000の兵を潰走させた。1441年にはポントワーズをフランス軍に奪い返され、ディエップの包囲にも失敗した。1442年5月20日にシュルーズベリー伯爵に叙され、1446年7月17日にはウォーターフォード伯爵位を与えられた。
1450年のフォルミニーの戦いでノルマンディーを失い、1451年にボルドーもフランス軍に奪われた。1452年、ボルドー市民の要請で、タルボットが遠征軍を率いてフランスに渡り、ボルドーを解放した。翌1453年7月17日、カスティヨンの戦いで、歩兵が多く騎士の少ない部隊で攻めかかり、敗死した。フランス軍を率いていたのは、かつて捕虜にしたアンドレ・ド・ラヴァルであった。遺体の損傷は激しく、従者の紋章官が口を開けて歯の隙間を確かめ、主人と確認して泣き崩れたという。10月19日にボルドーが再び落ち、百年戦争は事実上イングランドの敗北で終わった。心臓は、シュロップシャーのウィットチャーチの教会に収められている。
同じ年に亡くなった人物
- イザベル・ド・ロレーヌ (1453年没)
- アルバロ・デ・ルナ (1453年没)
- Orkhan (1453年没)
- ムハンマド9世 (1453年没)
- Enguerrand de Monstrelet (1453年)
同じ地域に関係する人物
- シャルル・ド・ヴァロワ (ベリー公) (1472年没)
- シャルル・バルバルー (1794年没)
- アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック (1901年没)
- シャルル・トゥルヌミール (1939年没)
- Jehan Buhan (1999年没)