HISTORICAL PERSON · 1965年没

アルベルト・シュヴァイツァー

アルザス出身の医師・神学者・哲学者・オルガニスト。「密林の聖者」と呼ばれ、1952年にノーベル平和賞を受賞した。

生涯
1965年没
死亡地
ガボン共和国(モワイエン・オゴウェ州 / ランバレネ)
出生地
フランス共和国(ケゼルスベール)
出典
世界地図
ガボン共和国(モワイエン・オゴウェ州)

伝記

アルベルト・シュヴァイツァーは、1875年1月14日、当時ドイツ帝国領だったオーバーエルザスのカイザースベルク(現在のフランス領アルザス)で、牧師の子として生まれた。医師、神学者、哲学者、オルガニスト、音楽学者であり、「密林の聖者」と通称される。生後1か月で、家族は南東約60キロのミュンスタータールに移住した。当時のドイツでは牧師の社会的地位が高く、家庭は比較的裕福だった。幼い頃、同級生と取っ組み合いの喧嘩をして相手を組み伏せたところ、相手が「お前の家みたいに肉入りのスープを飲ませてもらえれば負けやしない」と叫んだという。これを聞いて衝撃を受けた彼は、同じ人間なのに、なぜ自分だけ恵まれた生活をしているのかと、貧富の差の不条理を初めて認識し、子供心に苦悩した。この苦悩が、その後の一生を決定づけたとされる。

7歳の頃からピアノを、14歳の頃からパイプオルガンを習い、これが後のバッハ研究の下地となった。名門ストラスブール大学に入学して、神学と哲学の博士号を取得した。哲学の学位論文は『カントの宗教哲学』である。21歳の時に、「30歳までは学問と芸術に専念し、30歳からは世のために尽くす」と決意した。27歳でストラスブール大学の神学科講師となった後、30歳から同じ大学の医学部で学び始めた。これは、キリストが30歳から布教を始めたという故事に倣ったものだった。神学科の講師でありながら医学部の学生となるのは、特例として認められたものである。38歳の時に医学博士の学位を取得し、当時医療施設に困っていた仏領赤道アフリカのガボンのランバレネで活動しようと決めて、旅立った。

41歳の時に、「生命への畏敬」という概念にたどり着いた。人間をはじめ、生命をもつあらゆる存在を敬い、大切にする考え方で、あらゆる生命には生きようとする意志があるとし、自分のそれを大切にすると同時に、他の生命をも尊重すべきだとした。アフリカでの医療活動は、まさにその実践であった。第一次世界大戦で医療活動は中断され、ドイツ国籍だったために彼は捕虜となり、ヨーロッパへ送還された。その後、ヨーロッパ各地で講演し、病院の資金のためにパイプオルガンの演奏も行って、名声を得た。以後は、アフリカでの医療活動とヨーロッパでの講演活動を行き来する生活を続け、その献身が評価されて、1952年度のノーベル平和賞を受けた。

1957年以降は核への反対を公言するようになり、バートランド・ラッセルやパブロ・カザルスらと親しくなって、核反対運動にも参加した。1962年にはケネディ大統領に手紙を出し、子供たちへの放射線の遺伝的影響に関心を持つよう求めた。音楽でも業績を残し、著書『ヨハン・ゼバスティアン・バッハ』では、ロマン的な誇張の多い演奏に異議を唱え、歴史的な根拠に基づく解釈の重要性を説いた。これは、のちの「オーセンティックな演奏様式」のさきがけとなったとされる。晩年もランバレネで医療活動を続け、1965年9月4日に90歳で死去し、同地に埋葬された。チャーチルは彼を「人間性の天才」と評した。一方で、現地での評判は必ずしもよくなく、白人優位主義的な側面があったとの批判も、後に出されている。

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