HISTORICAL PERSON · 1965年没

ウィンストン・チャーチル

イギリスの政治家・軍人・作家。ボーア戦争などに従軍したのち政界に入り、保守党から自由党に移った時期もある。第二次世界大戦で首相を務めた。

生涯
1965年没
死亡地
イギリス連邦(ケンジントン・アンド・チェルシー区 / ハイド・パーク・ゲート)
出生地
イギリス連邦(ブレナム宮殿)
出典
世界地図
イギリス連邦(ケンジントン・アンド・チェルシー区)

伝記

ウィンストン・レナード・スペンサー・チャーチルは、1874年11月30日にオックスフォードシャーのブレナム宮殿で生まれたイギリスの政治家・軍人・作家である。父のランドルフ卿は第7代マールバラ公の三男で、この年の春にウッドストック選挙区から出馬して初当選した保守党の政治家だった。母ジャネット(愛称ジェニー)はアメリカ人投機家レナード・ジェロームの次女である。二人は1873年にワイト島で知り合い、3日後に婚約し、翌1874年4月にパリで結婚した。結婚から7か月半でチャーチルが生まれた。上流階級の習慣で養育は乳母のエリザベス・エヴェレストに任され、彼は彼女を「ウーマニ」と呼んで慕った。1877年からは、父がアイルランド総督となった祖父の秘書として赴任したため、アイルランドで幼少期を過ごした。1880年に弟ジョンが生まれている。

1882年、8歳を前にバークシャーの聖ジョージ・スクールに入ったが、成績は全教科で最下位で、鞭打ちにも遭い、悲惨な生活だったと回顧している。1884年に乳母が身体の鞭の跡を見つけ、母の判断で退学した。次のブライトンの寄宿学校は居心地がよく、父が保守党の著名な政治家だったこともあり、政治に関心を持つようになった。1888年にハーロー校に入ったが、ラテン語の答案は氏名欄以外が白紙だった。元大蔵大臣の息子であるため合格し、最も落ちこぼれのクラスに入れられたが、そのおかげで古典が免除され、英語の力を伸ばすことができた。軍事教練は好きで、父に陸軍に入る気はないかと聞かれてイエスと答え、進路が決まった。サンドハースト王立陸軍士官学校の入試は三度目で合格し、成績が悪かったため、歩兵科ではなく騎兵科の士官候補生になった。

軍人としては軽騎兵連隊に所属し、キューバの戦争を観戦し、インドでのパシュトゥーン人の反乱の鎮圧、スーダン侵攻、第二次ボーア戦争に従軍した。1900年の総選挙にオールダム選挙区から保守党の候補として当選したのは25歳のときである。だがジョゼフ・チェンバレンが保護貿易を主張すると反発し、自由党へ移った。アスキス内閣では通商大臣、内務大臣となり、ロイド・ジョージとともに失業保険などの社会改良政策に尽力した。ドイツとの建艦競争が激化するなかで海軍大臣に就任し、第一次世界大戦でも海軍大臣、軍需大臣として戦争を指導したが、ガリポリ上陸作戦の失敗で辞任した。戦後は戦争大臣や航空大臣、植民地大臣を歴任し、労働党政権の成立に反発して保守党へ復党して、ボールドウィン内閣の財務大臣を務めた。

1930年代にはヒトラーへの宥和政策に反対した。第二次世界大戦で海軍大臣として復帰し、その責任がチェンバレン首相に帰せられると、1940年に後任の首相となって、1945年の勝利まで戦争を主導した。バトル・オブ・ブリテンでドイツ軍を退け、独ソ戦の開始後はソ連と協力し、アメリカとも同盟を結んだ。一方、日本軍の参戦後には、香港やシンガポールが陥落するなど、失態も重なった。1945年7月の総選挙で保守党が敗れ、野党党首となったが、冷戦下で「鉄のカーテン」演説を行った。1951年に再び首相となり、1953年にノーベル文学賞を受賞し、1955年にイーデンに首相を譲って政界から退いた。1965年1月24日に亡くなった。

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