伝記
ウィリアム・サマセット・モームは、1874年1月25日にフランスのパリで生まれたイギリスの小説家・劇作家である。両親はともにイギリス人で、父ロバートは在パリ英国大使館の顧問弁護士を務め、サマセットは四人兄弟の末子だった。母メアリは名門の軍人の娘で、その美貌によってパリ社交界の華といわれた。しかし1882年に母が肺結核で、1884年に父が癌で亡くなり、一家は離散した。モームはイングランド南東部ケント州ウィスタブルの牧師である叔父のもとに引き取られたが、叔父との関係は良好とは言えず、慣れない田舎での生活は孤独だった。13歳でカンタベリーのキングズ・スクールに入るも、英語を流暢に話せず、生来の吃音もあって周囲から迫害を受け、それは生涯のコンプレックスとなった。これらの経験は、自伝的大作『人間の絆』の前半に克明に描かれている。
14、15歳のころ肺結核を患い、南フランスで転地療養をして、束縛のない自由な日々をはじめて経験した。16歳でドイツのハイデルベルク大学に遊学し、法律家や牧師の仕事は自分に向かないと悟って、作家を志すようになった。牧師にしたい叔父と対立し、18歳でロンドンの聖トマス病院付属医学校に入学した。学業には熱心でなかったが、貧民街に住み、インターンとして病院で働いた経験は、人間の赤裸々な本質を知る糧となった。1897年にフランス自然主義の影響を受けた処女作『ランベスのライザ』を出版して一定の評価を得たものの、商業的な成功には至らず、同時期に医師の資格を取った。以後も作品を出し続けたが目立った成果はなく、試行錯誤が続いた。1902年ごろから戯曲を書きはじめ、いくつもが上演されて、劇作家としての名声を確立した。1912年からは、半生を回顧する大作『人間の絆』の執筆に取りかかった。
1914年に第一次世界大戦が始まると、志願してベルギー戦線の赤十字野戦病院に勤め、のちに諜報機関に転属してジュネーヴで活動した。1915年に『人間の絆』が出版されたが、戦時中であったため注目されなかった。一方、戯曲『おえら方』は1917年にアメリカで上演されて成功した。1917年にはアメリカから日本、シベリアを経て、ロシア革命のさなかのペトログラードへ向かった。英国秘密情報部の諜報員として臨時政府のケレンスキーに接触し、資金援助を行ったが、ドイツとの単独講和を阻止する試みは、ボリシェヴィキが政権を倒したために失敗に終わった。この経験は、のちの『アシェンデン』の題材となった。激務で肺を悪くして帰国し、スコットランドのサナトリウムで療養するうち、画家ゴーギャンの生涯を基にした『月と六ペンス』の構想を練って書き始めた。1919年に出版された同作はアメリカでベストセラーとなり、『人間の絆』も再評価されて、彼は世界的な名声を得た。
その後は『お菓子とビール』『劇場』などの長編、太平洋を舞台にした短編集を発表し、最も高い執筆料を得る作家の一人とされた。旅を好み、1926年にはフェラ岬に生涯の本拠となる大邸宅を購入した。第二次世界大戦中は1940年のパリ陥落でロンドンへ逃れ、翌年アメリカへ渡って終戦まで滞在し、大作『剃刀の刃』で大きな反響を呼んだ。1948年の『カタリーナ』を最後に小説を断ち、1958年には評論集をもって約60年に及ぶ執筆生活の終了を宣言した。1959年には来日している。晩年は認知症を発症し、1965年12月にリヴィエラの邸宅で亡くなった。享年91であった。平明な文体と巧みな筋書きを特徴とし、面白い作品こそが自らの文学だと語って、通俗作家と評されてきた。
同じ年に亡くなった人物
- リンダ・ダーネル (1965年没)
- ジェス・ダグラス (1965年没)
- ウィルヘルム・ヴォリンガー (1965年没)
- ヘイスティングス・イスメイ (1965年没)
- ラルス・ハンソン (1965年没)
同じ地域に関係する人物
- ドゥシャン・ポポヴ (1981年没)
- クロード・オータン=ララ (2000年没)
- ハインリヒ・ヴィルヘルム・エルンスト (1865年没)
- スペンサー・キャヴェンディッシュ (第8代デヴォンシャー公爵) (1908年没)
- ピエール・ヴィダル=ナケ (2006年没)