伝記
ル・コルビュジエは、本名をシャルル=エドゥアール・ジャヌレ=グリといい、1887年10月6日にスイス北西部のフランス語圏にあるラ・ショー=ド=フォンで生まれ、主にフランスで活躍した建築家である。時計の文字盤職人の父エドゥアールとピアノ教師の母マリーの次男で、地元の装飾美術学校で彫刻と彫金を学び、家業の時計職人の道を進むつもりだったが、時計産業は斜陽化しつつあり、視力が非常に弱いことも精密な加工には大きなハンデだった。専門的な大学教育は受けていない。美術学校在学中の1907年、才能を見いだした校長の勧めで、建築家とともに最初の住宅の設計を手がけた。1908年にパリへ移り、鉄筋コンクリート建築の先駆者オーギュスト・ペレの事務所に、1910年にはドイツ工作連盟の中心人物ペーター・ベーレンスの事務所に籍を置き、短期間ながら実地で建築を学んだ。
1914年に、鉄筋コンクリートによる住宅建設の方法として「ドミノシステム」を発表した。1917年にパリへ出て、2年ほど鉄筋コンクリート会社に勤め、1920年にはダダの詩人ポール・デルメ、ピュリスムの画家アメデエ・オザンファンとともに、雑誌『レスプリ・ヌーヴォー』を創刊した。このころから、祖先の名からつけたというル・コルビュジエの筆名を用いた。1922年に従弟のピエール・ジャンヌレと事務所を構え、翌1923年には雑誌の記事をまとめた『建築をめざして』を発表し、世界中の建築家の注目を集めた。「住宅は住むための機械である」という言葉は、その建築思想を代弁するものとして知られる。1925年のパリ万国博覧会では、装飾のない『レスプリ・ヌーヴォー館』を設計し、アール・デコの展示館が並ぶなかで異彩を放った。『300万人の現代都市』『ヴォアザン計画』『輝く都市』など、超高層ビルと緑地による都市の案も発表し、パリでは実現しなかったが、以後の都市計画の考え方に影響を与えた。1927年にはヴァイセンホーフの住宅展に参加して2棟を設計し、1928年以降は近代建築国際会議の中心メンバーとして活躍した。1930年にイヴォンヌ・ガリと結婚し、同年フランス国籍を取得した。1931年に竣工したサヴォア邸は、彼の唱える近代建築の五原則を端的に示す代表作として知られる。
第二次世界大戦中は、ドイツに協力的なヴィシー政権に与したとされ、レジスタンスに加わったジャンヌレとは袂を分かった。戦後は、集合住宅『マルセイユのユニテ・ダビタシオン』を1947年から1952年にかけて建設し、1951年からはインド初代首相ネルーの依頼で、新都市チャンディーガルの都市計画と主要建築の設計にたずさわった。ジャンヌレとも、このプロジェクトで再び協働している。「モデュロール」の理論も提案した。後期の代表作『ロンシャンの礼拝堂』(1955年竣工)は、カニの甲羅を形どったとされる独特な形態で、従来主張していた機能性や合理性を超える新たな表現に達した。『ラ・トゥーレット修道院』は1960年に竣工している。『国立西洋美術館』の基本設計と、弟子の前川國男、坂倉準三、吉阪隆正との協議のため、1955年11月に来日して8日間滞在した。1961年にアメリカ建築家協会のゴールドメダル、1964年にレジオンドヌール勲章を受けた。1965年8月27日、南フランスのロクブリュヌ=カップ=マルタンで海水浴中に心臓発作を起こし、78歳で亡くなった。画家から出発し、建築家となってからも絵の制作を続けた。2016年には、その建築作品群が世界遺産に登録されている。
同じ年に亡くなった人物
- ルイーズ・ドレッサー (1965年没)
- ヒュー・ドライデン (1965年没)
- オディル・ドフレイエ (1965年没)
- アリス・ハーズ (1965年没)
- ハーバート・エバット (1965年没)
同じ地域に関係する人物
- アンドレ・ショルダ (1998年没)
- ステファニー・ド・ボアルネ (1860年没)
- ニコロ・パガニーニ (1840年没)
- ジャン・マレー (1998年没)
- ジャック・アレヴィ (1862年没)