伝記
ロレンツォ・ヴァッラは、1407年にローマで生まれた15世紀イタリアの人文主義者である。家はピアツェンツァの出身で、父のルカは市民法の博士で法廷弁護士、母のカテリーナは教皇庁に仕えた法学者ジョヴァンニ・スクリヴァーニの娘であり、貴族ではなかった。父はローマで職を得ていたため、彼はそこで生まれたが、ローマ人であることを誇りにした。父は早くに亡くなり、母は再婚せず、彼と兄弟の教育に心を配った。本来の姓はデッラ・ヴァッレであるが、手紙にはウァッレンシスと署名し、ヴァッラの名で知られるようになった。
若い頃はローマで、ジョヴァンニ・アウリスパやレオナルド・ブルーニといった人文主義者のもとで学び、教皇庁の使徒座秘書官を務めた母方の叔父メルキオーレ・スクリヴァーニにも導かれた。ヴァッラは当初から叔父の後を継ぐことを望んでいたという。その教育には、フィレンツェの人文主義者の集まりも強い影響を与えたとされる。ローマでラテン語の文法と修辞学を学んでいる。ポッジョ・ブラッチョリーニが1416年に発見したクインティリアヌスの『弁論家の教育』に心を奪われ、20歳ほどで弁論家を志すようになった。1431年から翌年にかけてはパヴィアで修辞学の教授を務めた。教皇マルティヌス5世の時代(1417年から1431年)には、教皇庁の一員になりたいとの望みを抱き、その機会は1429年に訪れたとされる。同じ1431年に、エピクロスを再評価して人間の快楽追求を肯定する論文『快楽論』を書いている。
その生涯は、パヴィア、ミラノ、フィレンツェ、ナポリなどを遍歴した約50年間で、数々の論争と迫害、そして友人や敵に彩られていた。それでも、古典の深い知識とラテン語の文体は保護者や賛美者を引き寄せた。当時はブルーニら人文主義者が、教会の承認を得てラテン語を学者の共通語にしようと考えており、ヴァッラはその復興を担う存在と見なされた。自らは文法家、弁論家、修辞家であり、音楽、天文学、市民法、ギリシア語などにも通じると考えていた。古典を研究して各地を巡ったのち、ナポリ王アルフォンソ1世のもとに身を寄せた。1439年には『コンスタンティヌスの寄進状』についての論考を著し、教皇領がローマ皇帝から寄進されたことの根拠とされてきたこの文書が偽書であることを、文献学的に証明した。
教皇至上説を批判したため、ときの教皇エウゲニウス4世を怒らせ、異端審問所に告発された。しかし次の教皇ニコラウス5世は寛容な態度を見せ、ヴァッラをローマ教皇庁に招いて古典研究に従事させた。のちにサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーノ大聖堂の聖職者となった。当時唯一の正典として権威を持っていたヴルガータ聖書の誤りを指摘し、アリストテレスの翻訳の誤りも明らかにした。文献学が聖書の権威に対しても力を発揮しうることを示したこの仕事は、のちにエラスムスにも影響を与えた。ヴァッラはアリストテレス派のスコラ的な論理学とストア主義を厳しく批判し、エピクロスに触発された道徳を擁護した人物でもある。1457年8月1日に世を去った。日本語訳には『「コンスタンティヌスの寄進状」を論ず』と『快楽について』がある。
同じ年に亡くなった人物
- Irene Kantakouzene (1457年)
- ゴーハル・シャード (1457年没)
- 景泰帝 (1457年没)
- 端宗 (朝鮮王) (1457年没)
- バルトロメウ・ペレストレロ (1457年)
同じ地域に関係する人物
- オンケロス (120年没)
- ホマイラ・ベグム (2002年没)
- ローマのラウレンティウス (258年没)
- ヴィットリオ・ガスマン (2000年没)
- Arcadio Larraona Saralegui (1973年没)