伝記
バスター・キートンは、1895年10月4日にカンザス州で、ジョセフ・フランク・キートンとして生まれたアメリカの喜劇俳優・映画監督・脚本家である。チャールズ・チャップリン、ハロルド・ロイドと並び、「世界の三大喜劇王」と呼ばれる。両親はともに舞台芸人で、1899年、まだ4歳の頃に、親子による「キートン3人組」で初舞台に立ち、各地でヴォードヴィルの巡業を続けた。父が小さな身体を逆さに持ち上げて振り回す「人間モップ」という荒っぽいギャグを売り物にしても、泣き顔ひとつ見せずに演じていたことは有名である。のちに弟と妹を加えた5人組としても人気を博し、イギリスなどでの海外巡業も経験した。芸名の由来は、突風に飛ばされても全く泣かなかったのを見た手品師のフーディーニが「おやおや、なんて頑丈なんだ」と言い、そばにいた父が「バスター」と呼んだことにあるといわれる。
1917年にニューヨークへ渡り、キーストン・スタジオで大人気を得て自らのプロダクションを設立していたロスコー・アーバックルに誘われて、映画界に入った。初出演作『ファッティとキートンのおかしな肉屋』では、新人ながら短くない出演時間を一度も撮り直さずに撮り終えた。1918年には第一次世界大戦の徴兵で一時離れ、耳を負傷したが回復した。体を張りながら無表情で一途な役柄を特徴とし、「偉大なる無表情」などと呼ばれたが、アーバックルの映画に出ていた頃は笑顔や泣き顔、激怒した顔なども見せていた。無表情が定着したのは、チャップリンの撮影施設を買い取ってキートン撮影所を設立した、独立後のことだった。1920年に長編『馬鹿息子』に主演し、同年、監督作『文化生活一週間』が公開された。1923年まで18本の短編を撮ったのち、1928年まで自らの撮影所で、『キートンの恋愛三代記』から『キートンの蒸気船』まで、長編10本を製作した。『キートンの探偵学入門』の撮影では、給水塔の水で汽車の上からレールに叩きつけられ、首の骨を折ったのに気づかず撮影を続けたと伝えられる。一年半後に偶然その痕が見つかったが、すでに完治していた。
1928年に自らの撮影所を手放し、MGMと契約した。キートンは乗り気ではなく、チャップリンやロイドにも反対されたという。しかし製作システムに対応できず、脚本や監督を務める機会が激減した。本人も自伝で、この移籍を過ちだったと語っている。1933年までMGMで撮影したが、サイレントの衰退とトーキーの台頭、ハスキーな声が合わないという評価、チームの解体などで、仕事は次第に衰えた。酒に溺れる日々が続き、撮影を丸1日潰したり、約束をキャンセルしたりして、解雇された。酒量が増えてアルコール使用障害に陥り、破産も経験し、離婚や再婚もあって、新聞に「発狂」と報じられるまでになった。
1950年代に入ると、テレビ出演やヨーロッパの舞台に恵まれた。1950年にビリー・ワイルダー監督の『サンセット大通り』に出演し、1952年には『ライムライト』でチャップリンと初共演を果たした。黄金時代のフィルムが探し出されて再上映され、再評価が高まった。1959年にアカデミー名誉賞を授与された。1966年2月1日、肺癌のためロサンゼルスのウッドランドヒルズの自宅で亡くなった。70歳だった。
同じ年に亡くなった人物
- カルロ・カッラ (1966年没)
- サミュエル・カハナモク (1966年没)
- チャールズ・ホイットマン (1966年没)
- 小沢治三郎 (1966年没)
- エミール・ユリウス・ガンベル (1966年没)
同じ地域に関係する人物
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- マリー・ウィンザー (2000年没)
- ジョセフ・カンパネラ (2018年没)
- サバンナ (女優) (1994年没)
- アンドリュー・ゴールド (2011年没)