伝記
ジェマル・ギュルセルは、1895年10月13日、エルズルム地方で、オスマン帝国軍人の家庭に生まれたトルコの軍人・政治家である。祖父はイブラヒム、父はアビディンといった。オルドゥの小学校を出ると、エルズィンジャンの軍の中学、イスタンブールのクレリ軍事高等学校、陸軍士官学校へと進んだ。早くから「ジェマル・アー(兄貴、親分)」とあだ名された親分肌の人物で、このあだ名は生涯ついて回った。士官学校の最終学年の1914年10月に第一次世界大戦が勃発し、従軍してガリポリの戦いに少尉として参加し、戦功で勲章を受けた。のちパレスチナ戦線に転じたが、1918年9月19日にメギドの戦いでイギリス軍の捕虜となり、1920年10月6日までエジプトに抑留された。のち大統領のとき、外国の記者にその間なぜ英語を学ばなかったのかと問われ、捕虜であることに憤り、代わりにフランス語を勉強したと、少し悔やむように答えたという。
解放されるとアナトリアへ戻り、ムスタファ・ケマルに従った。トルコ独立戦争に従軍し、トルコ西部の戦線でギリシア軍と戦い、第二イノニュの戦いやエスキシェヒルの戦い、サカリヤ川の戦いで活躍して、議会から独立勲章を授けられた。1922年9月に大尉に昇進し、1926年に入校した陸軍大学を1929年に修了して参謀となった。1927年に海軍士官の娘メラハットと結婚し、一男をもうけた。45年に及ぶ軍歴で大将まで昇り、ソビエト連邦との国境に駐屯する第3軍の司令官を経て、1958年に陸軍総司令官となった。包容力とユーモアにあふれた人柄で、北大西洋条約機構の同僚にも人気があり、軍部や国民の人望も厚かった。
1960年3月、国防省に覚書を送り、学生や知識人の反政府運動にさらされていたメンデレス首相を支持するとともに、首相が次期大統領に就いて国民の団結を守るべきだという見解を示した。これにより次期参謀総長の候補から外され、退役に追い込まれた。5月27日、青年将校らがクーデターを強行して、メンデレスやバヤル大統領らを逮捕した。ギュルセルは計画に加わっていなかったが、人望の厚さから臨時政権の指導者に選ばれ、寝間着のまま輸送機で首都アンカラに移送された。5月30日、国家統一委員会で国家元首・首相・国防相を兼任すると宣言し、アタテュルク以来の強権を握った。
メンデレス政権が逮捕した学生200人と新聞記者9人を釈放させ、発禁処分の13紙を解禁し、法学者らに新憲法草案を起草させた。逮捕された者たちの死刑を回避するよう努めたが、メンデレスと閣僚二人の死刑回避は軍部に拒まれた。軍部独裁に抵抗したため何度か暗殺やクーデターの計画に直面したが、首謀者を左遷して、新憲法の制定と民主主義への回帰に大きな役割を果たした。1961年に国民投票で新憲法が承認され、ギュルセルは正式に第4代大統領に選ばれた。外交ではソ連との融和に努める一方、西側諸国との関係を強め、近隣のイスラム諸国との善隣にも努めた。1961年ごろから発作が見られ、1966年2月にワシントンの陸軍病院へ緊急空輸されたが、昏睡状態に陥ってトルコに戻され、3月に大統領権限を停止された。同年9月14日に亡くなり、アタテュルク廟の敷地内の墓地に葬られ、1988年に国家墓地へ改葬された。
同じ年に亡くなった人物
- グリア・ガースン (1966年没)
- ロバート・F・ヒル (1966年没)
- ゲオルク・ド・ヘヴェシー (1966年没)
- シドニー・ハッチ (1966年没)
- アブバカル・タファワ・バレワ (1966年没)
同じ地域に関係する人物
- ハトゥ・チュルパン (1956年没)
- シアマント (1915年没)
- キャーズム・オザルプ (1968年没)
- ヤークプ・カドリ・カラオスマンオール (1974年没)
- アブルファズ・エルチベイ (2000年没)