伝記
モンゴメリー・クリフトは、1920年10月17日、ネブラスカ州オマハの裕福な家に生まれた俳優である。愛称はモンティという。父ウィリアム・ブルックスはオマハ信託会社の副社長で、母エセルは通称サニーといった。両親はともにクエーカー教徒で、コーネル大学の学生時代に出会って、1914年に結婚した。双子の妹ロバータと、兄ブルックスがいた。養子だった母は、自分の曽祖父が郵政長官モンゴメリー・ブレアと北軍の司令官ロバート・アンダーソンだと主張し、その縁者たちに認められようと生涯努力した。母は子どもたちを貴族のように育てようとし、父が払えるあいだは家庭教師をつけて、アメリカとヨーロッパを広く旅させた。クリフトはドイツ語とフランス語に堪能になり、第一次世界大戦後の貧困や伝染病から守られた生活を送った。7歳のとき、ヨーロッパ行きの船のプールで少年に長く頭を水に沈められ、首の腺が破裂して、手術の傷跡が長く残った。1929年の株価暴落と大恐慌で父は財産を失い、家族は転居を余儀なくされたが、母は子どもたちを連れた旅を続けた。のちの雑誌で、自分の子ども時代は「お化けのようで、両親はよく旅をした。覚えているのはそれだけ」と冗談めかした。
演劇への関心は幼い頃から見せていたが、自ら役を求めたのは13歳のとき、シカゴからフロリダへ転居した折に、地元の公演に無報酬で小さな役を得たのが最初だった。まもなく一家はニューヨークに落ち着き、十代前半で、喜劇『フライ・アウェイ・ホーム』でブロードウェイに初舞台を踏んだ。以後10年ほどは舞台で経験を積み、ソーントン・ワイルダーの『危機一髪』でヘンリー役を初演するなど、多くの作品で主演を務めて高い評価を得た。1939年には、『ヘイ・フィーヴァー』の出演者として、アメリカで最初期のテレビ放送のひとつに加わった。ハリウッドからの誘いを断り続けていたが、1948年、ジョン・ウェイン主演の『赤い河』で映画デビューした。同年の『山河遥かなり』では、ナチスに母親と引き離され、失語症になった少年を保護する心優しい米兵を演じて、アカデミー賞にノミネートされた。『陽のあたる場所』と『地上より永遠に』でも指名され、二枚目俳優として活躍した。映画会社との長期契約は結ばず、大作や話題作の出演を断ることが多かった。『波止場』『エデンの東』『真昼の決闘』などは、彼が断った作品の一部だという。また、マーロン・ブランドやジェームズ・ディーンとともに、ハリウッドの最初のメソッド演技の俳優の一人とされる。
1950年頃からアレルギーと大腸炎に悩まされ、アルコールとドラッグの問題を抱えるようになった。1956年に交通事故で顔面を負傷し、整形手術をしたが顔の筋肉の一部が動かなくなり、健康上の問題はさらに増えた。それでも1959年にはテネシー・ウィリアムズの戯曲を映画化した『去年の夏 突然に』に、1961年にはマリリン・モンローとクラーク・ゲーブルが主演した『荒馬と女』に出演した。同年の『ニュールンベルグ裁判』ではアカデミー助演男優賞にノミネートされた。1966年7月23日、心臓発作で亡くなった。
同じ年に亡くなった人物
- エリザベス・パターソン (1966年没)
- ギジェルモ・ゴロスティサ (1966年没)
- ギジェルモ・スタービレ (1966年没)
- ジーノ・セヴェリーニ (1966年没)
- フリッツ・ゼルニケ (1966年没)
同じ地域に関係する人物
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- ミルト・ジャクソン (1999年没)
- ダニエル・マニング (1887年没)
- サイラス・フィールド (1892年没)
- ウィリアム・ロバート・ブルックス (1922年没)