HISTORICAL PERSON · 1966年没

セルゲイ・コロリョフ

ソ連の最初期のロケット開発指導者。世界初の大陸間弾道ミサイルR-7を開発し、これでスプートニク1号やガガーリンの有人宇宙飛行を実現した。

生涯
1966年没
死亡地
ロシア連邦(モスクワ)
出生地
ウクライナ(ジトームィル)
出典
世界地図
ロシア連邦(モスクワ)

伝記

セルゲイ・パーヴロヴィチ・コロリョフは、1907年1月12日(旧暦では1906年12月30日)、当時ロシア帝国領だったウクライナのジトーミルで、ロシア人の父とウクライナ人の母のあいだに生まれたソビエト連邦のロケット開発指導者である。若い頃はオデーサで、その後はキーウで学び、1920年代前半にはキーウの航空研究会に所属してグライダーを設計した。1926年にモスクワ最高技術学校(現在のバウマン・モスクワ工科大学)に進み、航空機設計者アンドレイ・ツポレフの指導を受けて、1930年に卒業した。その後は爆撃機の設計に従事しながら、航空機にジェット推力を使うことを構想し、1931年にはジェット推力研究グループに参加した。1933年にはソ連で最初の液体燃料ロケットの打上げに成功し、新設されたジェット推力研究所の所長になった。

1938年7月22日、新ロケットの開発に難航するなか、ほかの研究所員とともに内務人民委員部に逮捕された。先に逮捕されていたヴァレンティン・グルシュコの告発による冤罪とされる。容疑はテロ組織への関与と、研究の遅延・怠慢による国家資源の浪費だった。尋問では顎をひどく骨折するほどの暴行を受け、自白を強要された。10年の刑を受けて、シベリアのコルィマ鉱山の強制収容所に送られ、過酷な環境のなかで壊血病にかかって歯がすべて抜け落ち、心臓病にも苦しんだ。のちに師のツポレフの嘆願などで再審が行われ、刑は8年に減じられた。1939年末にモスクワの科学者刑務所に移され、コルィマ送りのきっかけとなったグルシュコとともに、再び戦闘機や爆撃機の開発に従事した。罪が免除されたのは1944年である。のちに自分を収容所に送った元凶がグルシュコの告発と知り、二人の相互不信は死ぬまで続いた。
1945年に最初の勲章を受け、赤軍では大佐の階級を与えられた。同年、戦争直後のドイツに飛び、ペーネミュンデ研究所で作られていたV-2ロケットの情報を集めた。1946年には5000人のドイツ人技術者をソ連に移し、彼らは比較的よい扱いを受けた。コロリョフが設計したR-2ロケットは、V-2の倍の飛行距離を記録した。1950年4月には第88研究所内の第1設計局の主任設計者となり、1952年に共産党に入党して研究開発の資金が国家から援助されるようになった。1957年4月には、1938年の逮捕と裁判が不当と認められて名誉回復を果たした。私生活では、1930年に結婚した妻クセニアとのあいだに娘が生まれたが、強制労働中は引き離され、再会後の1948年に離婚し、翌年ニーナと再婚した。

1957年8月にはR-7の実験に成功し、世界初の大陸間弾道ミサイルとなった。そして1957年10月4日、このロケットで世界初の人工衛星スプートニク1号を打ち上げた。11月3日にはライカという犬を乗せたスプートニク2号を打ち上げたが、犬を生還させる技術はなく、数時間後に死亡した。続いて有人宇宙船ボストークを開発し、1961年にユーリイ・ガガーリンを世界初の有人宇宙飛行に送り出した。さらに有人月旅行を目指して、大型宇宙船ソユーズや大型ロケットN-1の開発を進めたが、1966年1月14日、がんの手術中に心臓が停止して亡くなった。若い頃のシベリアでの強制労働が身体をむしばんでいたという。国葬で送られ、赤の広場の壁に葬られた。ソ連当局が宇宙開発技術者の身元を明かさない方針だったため、その名は死まで西側に伝わらず、ヴェルナー・フォン・ブラウンも、死後に初めて存在を知ったという。

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