伝記
エミリオ・ジュゼッペ・ファリーナは、1906年10月30日にイタリアのトリノで生まれたレーシング・ドライバーである。1950年に創始されたF1世界選手権の初代チャンピオンとなった。博士号を持つことから「ドクター・ファリーナ」の異名を取り、「ニーノ」の愛称でも呼ばれた。トリノで車体製造会社を経営するジョヴァンニ・ファリーナの息子で、叔父のバッティスタ・ファリーナは、のちにピニンファリーナを創始した人物である。9歳で2気筒の小さな車を運転し始めたという。
モータースポーツの魅力に取りつかれ、1921年、15歳でレースに参加するようになった。学業では政治学の博士号を得たとされる(技術の学位とする資料もある)。スキーやサッカー、陸上競技も得意で、騎兵将校としての経歴を途中でやめて、モータースポーツという別の志望をかなえることにした。大学在学中に中古の車を買い、ヒルクライムに出たが、父に勝とうとして事故を起こし、肩を骨折して顔に傷を負った。これは事故の多いその後の経歴を予告するものとなった。名ドライバー、タツィオ・ヌヴォラーリと親しくなり、その導きを受けた。やがてエンツォ・フェラーリの目に留まって契約し、アルファロメオの車でミッレミリアに出て2位に入った。1937年にはナポリのグランプリで優勝し、1938年ごろにはアルファロメオのエースとなっていた。1940年にリビアで行われたトリポリ・グランプリで勝利した後、第二次世界大戦でレースが中断した。
戦後は再び第一線で活躍し、1948年にはモナコ・グランプリを制した。非常に激しい走りで知られ、熱血型の性格だったといわれる。1936年のドーヴィルのグランプリと、1938年のトリポリのグランプリでは、他車との接触事故を起こし、いずれも相手のドライバーが亡くなった。エンツォ・フェラーリは、アクセルを踏み続けることを恐れない勇気ある走り手だが、スタート時にはクラッシュを起こすのではないかと気を揉んだ、と語っている。運転姿勢も独特で、他のドライバーがハンドルを抱え込むように持つなか、上体を後ろに反らし、腕を伸ばしてハンドルを握った。
1950年に始まったF1世界選手権では、開幕戦のイギリス・グランプリでポールポジションを獲得し、レースでも優勝して、創設初戦の初代優勝者として名を刻んだ。この年は3勝を挙げ、同じチームのファン・マヌエル・ファンジオやルイジ・ファジオーリに競り勝って、初代世界チャンピオンとなった。1951年はファンジオが圧倒的な強さを見せ、ファリーナは1勝にとどまった。同年かぎりでアルファロメオが撤退したため、フェラーリに移り、アルベルト・アスカーリのセカンドドライバーという契約に不満を抱いた。1953年のドイツ・グランプリが最後の勝利となり、このレースは、欧米を歴訪中だった19歳の皇太子明仁親王が観戦して、表彰台でファリーナと握手を交わした。1955年半ばにF1を引退し、1956年にはインディ500に挑戦したが、予選落ちに終わった。スポーツカーレースでも、1953年のニュルブルクリンク1000キロなどで勝っている。晩年はアルファロメオとジャガーの販売に携わった。1966年6月30日、フランス・グランプリへ向かう途中、フランス・アルプスでロータス・コルティナのコントロールを失い、電柱に衝突して即死した。
同じ年に亡くなった人物
- フェリックス・ベニング・マイネス (1966年没)
- エミール・ユリウス・ガンベル (1966年没)
- ハリー・ボーモント (1966年没)
- クレオ・ド・メロード (1966年没)
- バッティスタ・ファリーナ (1966年没)
同じ地域に関係する人物
- アメデーオ4世・ディ・サヴォイア (1253年没)
- トンマーゾ2世・ディ・サヴォイア (1259年没)
- レオン・ブランシュヴィック (1944年没)
- ウンベルト1世 (サヴォイア伯) (1040年代没)
- パーヴェル・ミリュコーフ (1943年没)