伝記
アンドレ・ブルトンは、1896年2月19日に生まれたフランスの詩人・文学者で、シュルレアリスムの創始者である。誕生日について本人はしばしば2月18日と公言したが、それは詩的な意味であり、書類にははっきり2月19日生まれと記されている。父は元警察官、母は元お針子で、医学校では精神医学に興味を持った。ところが第一次世界大戦に召集されて、医学の勉強は中断した。その頃、当時のフランスではあまり知られていなかったフロイトの心理学に触れている。
戦争が終わると、ルイ・アラゴン、フィリップ・スーポーらとともにダダに参加した。1919年1月6日、ダダの先駆者として知られるジャック・ヴァシェがナントで亡くなり、1月22日にブルトンが初めてチューリッヒのトリスタン・ツァラに手紙を書いて、その死を知らせた。3月、アラゴン、ブルトン、スーポーの3人の編集で、パリ・ダダの機関誌『リテラチュール』の第1号が出た。4月の第2号からは、イジドール・デュカスの『ポエジー』が載りはじめた。ブルトンが国立図書館で発掘したというのが通説だが、これは誤りだとされる。すでに亡くなる1907年以前に、アルフレッド・ジャリがロートレアモンを重要な作家の一人と位置づけており、ヴァシェを通してブルトンが『リテラチュール』で紹介したのである。1920年1月、ようやくツァラがパリにやって来て、ダダイストたちに歓迎された。
1920年代に入るとツァラと対立し、ダダと決別した。アラゴンやスーポー、ロベール・デスノスらと新しい芸術運動を展開し、眠りながらの口述などの実験を試みて、1924年に「シュルレアリスム宣言」を起草し、シュルレアリスムを創始した。宣言は、自動記述による物語集『溶ける魚』の序文として書かれたものだったが、シュルレアリスムという言葉をはっきり定義したことで宣言になった。1924年5月初めには、偶然に地図の上から選ばれた町ブロワへ、アラゴンらと汽車で実験旅行に出かけている。『シュルレアリスム革命』誌の編集長となり、感化された多くの芸術家がパリに集まった。ブルトンは拡大する運動の中心的存在「法王」として君臨し、現実の女性との出会いを語る『ナジャ』や『狂気の愛』、『通底器』のほか、多くの評論を著した。スーポーとの共著『磁場』は、最初のシュルレアリスムのテクストといえる。
その一方で、エルンストやダリ、バタイユ、アルトーら多くの芸術家をシュルレアリスムから「除名」し、反発も招いた。アラゴン、エリュアール、スーポーなど創始者たちのほとんどは、のちにブルトンのもとを離れた。1926年ごろには共産党から批判を受け、一度は入党したが、追及が厳しく、思想も本質的に異なって離れた。トロツキーの著書には感銘を受け、1940年ごろにはメキシコシティを訪ね、共著で『独立芸術革命のために』を発表している。第二次世界大戦中はニューヨークに亡命し、マルティニークを経由した際にエメ・セゼールと出会って、その詩に衝撃を受けた。戦後はフランスへ戻った。芸術家たちが離れていくなかで、終生シュルレアリストの立場を貫き、1966年9月28日に70歳で亡くなった。パリ9区のフォンテーヌ通り42番地の書斎には、絵画のほか、アフリカの民芸品などの膨大なコレクションがあった。
同じ年に亡くなった人物
- アルブレヒト・ブランディ (1966年没)
- ピーター・デバイ (1966年没)
- ゲオルク・ド・ヘヴェシー (1966年没)
- ハンネス・コーレマイネン (1966年没)
- ジャック・ロンドン (陸上選手) (1966年没)
同じ地域に関係する人物
- アンリ・グレゴワール (1831年没)
- Ida Mett (1973年没)
- エルネスト・ボー (1961年没)
- エマニュエル・シャブリエ (1894年没)
- ジョルジュ・スペナール (1983年没)