伝記
シャルル・ドルレアンは、1394年11月24日に生まれた百年戦争期のフランスの王族で、オルレアン公である。詩人としても知られる。父はフランス王シャルル6世の弟オルレアン公ルイ、母はミラノ公の娘ヴァレンティーナ・ヴィスコンティで、その第4子だった。同母弟にアングレーム伯ジャン、異母弟にデュノワ伯ジャンがいる。1406年、父の工作で、シャルル6世の長女で従姉にあたるイザベル(イングランド王リチャード2世の未亡人)と結婚したが、イザベルは1409年に娘ジャンヌを産んだ際に亡くなった。
1407年、父はブルゴーニュ公ジャン1世(無怖公)に暗殺された。怒りに燃えた母は無怖公を国王夫妻に訴えたが、無怖公の武力とパリ市民の人気のために追及できないまま、1408年に世を去った。両親を失ったシャルルは、1409年に無怖公と形ばかりの和睦をせざるを得なかった。しかし翌1410年にアルマニャック伯ベルナール7世の娘ボンヌと再婚し、父の報復を図って、ベリー公、ブルターニュ公、ブルボン公ら反ブルゴーニュ派の貴族をアルマニャック派として再結集した。1411年に無怖公へ弾劾状を送り、内戦に突入する。イングランドの援助を当てにして同盟を打診し、1412年5月に同盟を結んだが、同年8月に両派が和睦する際にその同盟を破棄した。そのためイングランドから賠償金を請求され、支払えずに弟のジャンを人質として差し出すことになった。
1413年にはパリで起きたブルゴーニュ派の暴動で無怖公がパリを退去した隙にパリに入ったが、内戦の長期化を恐れ、翌1414年9月に再び無怖公と和睦した。1415年、イングランド王ヘンリー5世がアジャンクールの戦いでフランス軍を破ると、シャルルは多数の貴族とともに捕虜となり、ウィンザー、ポンテフラクト、ウィングフィールドなどイングランド各地に幽閉された。この間に「獄屋の歌」を記したとされる。幽閉中も、領地に残された家来と手紙のやり取りを欠かさず、金策やオルレアンの防衛に指示を下した。1428年10月から翌年5月にイングランド軍に包囲されたオルレアンは、異母弟のデュノワ伯ジャンがジャンヌ・ダルクらと協力して守り抜いた。シャルルは二人に感謝し、ジャンヌへ盛装を贈り、デュノワにはデュノワ伯領と年金を与えた。
1433年にはカレーへ連れてこられたが和平会談は開かれず、1435年のアラスの講和会議にも付き添いとして出席しながら釈放されなかった。それでも和睦の駒として重んじられ、イングランドの和平派ボーフォート枢機卿らが反対を押し切って釈放に踏み切った。1440年2月に交渉がまとまり、ブルゴーニュ公フィリップ善良公が莫大な身代金の一部を支払って解放され、9月に帰国した。11月には善良公の姪マリー・ド・クレーヴと3度目の結婚をし、翌年1月にオルレアンへ入城した。だが従兄弟のシャルル7世には冷遇され、身代金の完済にも苦しみ、1442年にはプラグリーの乱の残党に担がれて反国王派に立ったが、国王に機先を制されて阻止された。1447年には母の相続権を盾にミラノを攻略しようとしたが失敗した。1450年に政治から離れてブロワ城に隠棲し、1465年に70歳で没した。最後の妻マリーとの間にルイ12世と二人の娘をもうけている。
同じ年に亡くなった人物
- ジュアノット・マルトゥレイ (1465年)
- ソマス・パレオロゴス (1465年没)
- ケティル・カールソン・ヴァーサ (1465年没)
- イザベル・ド・ブルボン (1465年没)
- アブド・アル=ハック2世 (1465年没)
同じ地域に関係する人物
- エティエンヌ・フランソワ・ド・ショワズール (1785年没)
- エドゥアール・アンドレ (1911年没)
- フェデリーコ1世 (ナポリ王) (1504年没)
- トゥールのベレンガリウス (1088年没)
- フルク1世 (アンジュー伯) (942年没)