HISTORICAL PERSON · 1967年没

愛新覚羅溥儀

清の第12代で最後の皇帝。2歳で即位して辛亥革命で退位し、のち満洲国の執政、次いで皇帝となった。

生涯
1967年没
死亡地
中華人民共和国(北京市 / 東城区)
出生地
中華人民共和国(西城区)
出典
世界地図
中華人民共和国(北京市)

伝記

愛新覚羅溥儀は、1906年2月7日に北京の醇王府で生まれた、清の第12代で最後の皇帝である。父は光緒帝の弟の醇親王載灃、母は西太后の腹心栄禄の娘の幼蘭で、祖父は愛新覚羅奕譞、曽祖父は道光帝にあたる。1908年に光緒帝が崩御し、その翌日に西太后も74歳で崩御すると、後継者に指名されていた溥儀は、わずか2歳10か月で即位して宣統帝となった。即位式は紫禁城の太和殿で行われ、父が監国摂政王として政治の実権を委ねられた。多くの宦官や女官とともに紫禁城で暮らすことになる。光緒帝の死については毒殺の説もあり、2007年の調査では遺髪から大量の砒素が検出されたが、誰の仕業かは不明のままである。

1911年10月に辛亥革命が起こると、政界に復帰した袁世凱が清の政府に摂政王の退位を求め、宣統帝を退位させる代わりに自らが臨時大総統に就く裏取引を孫文らと行った。隆裕皇太后は連日御前会議を開き、1912年2月、ついに皇帝の退位を決断した。「清室優待条件」により、溥儀は大清皇帝の尊号を保ち、退位後も紫禁城で暮らすことが認められ、宦官らとともに皇帝としての生活を続けた。袁世凱が一時皇帝を名乗ったのち、1917年には保守派の張勲が復辟を宣言して溥儀を再び即位させたが、この復辟は約2週間で挫折した。1919年3月には、スコットランド人のレジナルド・ジョンストンが帝師として招かれ、13歳の溥儀に近代的な西洋風の教育を授けた。ジョンストンは英語を教え、自動車や洋服、電話などをもたらし、溥儀は辮髪を切り、「ヘンリー」の名を好んで使った。

1922年、婉容を皇后に、文繡を淑妃に迎え、紫禁城で盛大な結婚式を挙げた。側室を迎えることには反対したが、側近の勧めで文繡一人だけに同意したという。1924年6月には、宦官による美術品の横領を一掃しようとして目録を作成させたが、直後に一部の宦官が建福院に放火した。激怒した溥儀は、約1200名いた宦官のほとんどを解雇し、国民やマスコミから称賛された。同年のクーデター(北京政変)で紫禁城を追われ、イギリスやオランダの公使館に庇護を求めたが断られ、天津の日本租界の張園に移った。1923年の関東大震災の際には、紫禁城にある宝石などを送り、義捐金に充てるよう日本側に申し出たとされる。

1931年に満洲事変が起こり、日本軍の手引きで天津を脱出して満洲へ移り、1932年に満洲国の執政に就任した。1934年3月1日には満洲国皇帝(康徳帝)に即位した。1935年に初の外国訪問として日本を公式に訪れ、1940年にも再び訪れている。1945年8月、日本の敗戦と満洲国の崩壊で退位し、日本へ亡命する途中でソ連軍の捕虜になった。1946年には極東国際軍事裁判にソ連側の証人として出廷し、1950年に中華人民共和国へ引き渡されて、撫順の戦犯管理所に収容された。1959年に釈放され、一般市民の生活に慣れるため北京植物園で庭師として働いたのち、政協文史研究委員会の専門委員となり、1964年には満洲民族の代表として政協全国委員に選ばれた。1962年に李淑賢と再婚し、1967年10月17日に北京で死去した。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物