HISTORICAL PERSON · 1967年没

ウディ・ガスリー

米国のフォーク歌手、作曲家。プロテスト・フォークの歌手として有名で、「ジス・ランド・イズ・ユア・ランド」などの代表曲がある。

生涯
1967年没
死亡地
アメリカ合衆国(ニューヨーク州 / ニューヨーク)
出生地
アメリカ合衆国(Okemah)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(ニューヨーク州)

伝記

ウッドロウ・ウィルソン・「ウディ」・ガスリーは、1912年7月14日にオクラホマ州オケマーで生まれたアメリカのフォーク歌手、作詞・作曲家、政治活動家である。プロテスト・フォークの歌手として知られ、生涯に3千曲を書いたとされるが、録音されたのはごく一部である。名は、同年の選挙で大統領に選ばれたウッドロウ・ウィルソンにちなむ。幼い頃、不動産屋を営む父のもとで裕福な暮らしをしていたが、6歳の時に自宅で火災が起こり、姉のクララがその時の負傷がもとで亡くなった。さらに父が他の家の火事に巻き込まれて重傷を負い、治療のためテキサスに移ると、一家は一気に傾いた。ガスリーは13歳の時には路上に投げ出されるような状態になった。母はハンチントン病を患って精神も病み、14歳の時に亡くなって、一家は離散した。17歳のころから国中を日雇労働者として放浪し、労働者のストライキや組合の集会にも関わった。19歳でテキサスに赴いてメアリー・ジェニングスと結婚し、3人の子をもうけたが、ダストボウルの時代になると、カリフォルニアへ向かう季節労働者たちの後を追って、家族を残して旅立った。その旅で見た労働者たちの貧困は、のちの作品に大きな影響を与えた。

1930年代半ば、ラジオのパートナーのマクシーン・「左利きのルー」・クリスマンとともに、ヒルビリー音楽と伝統的なフォークを聴かせる放送演者として、ロサンゼルスを中心にカリフォルニアで名を上げた。1935年から1937年まで、ラジオの人気歌手となったが、民衆の苦境を見かねてスト中の労働者を応援に行き、暴力集団に袋叩きにされながら歌ったこともある。1939年から1940年にかけてニューヨークに移り、フォーク界に受け入れられた。そこで音楽学者アラン・ローマックスが、議会図書館のために、数時間の会話と歌を録音した。1940年には最も有名な歌「我が祖国」(ジス・ランド・イズ・ユア・ランド)を書いた。これは、放浪中の経験と、アーヴィング・バーリンの「ゴッド・ブレス・アメリカ」への反発から生まれたもので、彼はバーリンの歌を非現実的で自己満足的だと嫌った。同年にダストボウルの悲劇を描いた『ダストボウル・バラッド』を発表し、生前に最も売れたアルバムとなった。1941年にはピート・シーガーらとオルマナック・シンガーズを結成し、同年内務省の委嘱で、コロンビア川のダムに関する曲を作り、「ロール・オン・コロンビア」などが知られている。自伝『栄光への旅路』は、1943年に出版された。

自分のギターに「この機械はファシストを死なせる」と刻んだガスリーは、第二次世界大戦では商船隊に加わり、のち陸軍にも入隊したが、直接の戦闘には携わっていない。1944年にフォークウェイズ・レコードのモーゼス・アッシュと出会い、その後の数年間に、「我が祖国」をはじめとする数百の作品を録音した。1945年に結婚して、ニューヨークのコニーアイランドのマーメイド通りの家に住み、4人の子をもうけたが、そのうちの娘キャシーを4歳の時に火災で失い、重いうつ病の原因になった。息子のアーロはのちにシンガーソングライターとなる。1940年代後半から、母が患ったのと同じハンチントン病の徴候が現れ、行動が不規則になって、家族を捨てて放浪した。誤診が続いた末に、1954年にこの病と診断され、入退院を繰り返し、1967年10月3日にクイーンズの病院で亡くなった。晩年に彼を訪ねたボブ・ディランは、彼を「私の最後の英雄」と呼んだ。

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