HISTORICAL PERSON · 1967年没

ハロルド・ホルト

第17代オーストラリア首相。1966年に就任し、英米との関係を密にしてベトナム戦争へ派兵した。1967年に海水浴中に行方不明となり、遺体は見つからなかった。

生涯
1967年没
死亡地
オーストラリア連邦(ビクトリア州 / Cheviot Beach)
出生地
オーストラリア連邦(スタンモア (ニューサウスウェールズ州))
出典
世界地図
オーストラリア連邦(ビクトリア州)

伝記

ハロルド・エドワード・ホルトは、1908年8月5日、シドニー郊外のスタンモアにある両親の家で、オリーヴ・メイとトーマス・ジェームズ・ホルトの二人兄弟の長男として生まれたオーストラリアの政治家である。父は体育教師を務めたのち、各地を巡業する芸能のエージェントとなり、1914年に両親がアデレードに移ると、兄弟はシドニーに残って叔父のもとで暮らした。1916年末に祖父母の住む田舎で過ごし、その後は私立学校に通ったが、そのころ両親は別居した。1920年にメルボルンのウェスレー・カレッジの寄宿生となり、人気のある優れた生徒で、最終学年に奨学金を得て、二番の成績で卒業した。休暇は両親でなく親戚や友人と過ごすことが多く、母は1925年に亡くなったが、十六歳の彼は葬儀に出席できなかった。

1927年にメルボルン大学で法律を学び始め、奨学金を得てクイーンズ・カレッジで暮らした。大学ではクリケットやフットボールで代表となり、法学生協会の会長も務めるなど活動的だった。のちに首相となるロバート・メンジーズと知り合ったのをきっかけに政界を目指すようになり、政界入りの前は弁護士を務め、映画館経営者団体のロビイストでもあった。1935年、二十七歳で連邦下院のフォークナー補欠選挙に統一オーストラリア党から立候補して当選した。1939年、師と仰いだメンジーズが首相になると無任所大臣に任じられたが、短い期間の陸軍勤務で閣僚の職を離れた。1940年にキャンベラの航空機事故で三人の閣僚が亡くなると、閣僚に呼び戻された。1941年に政権が敗れて野党となり、1945年に自由党が発足すると、これに加わった。

1949年に自由党が政権を取ると、有力な閣僚となった。1949年から1956年まで移民大臣を務め、戦後の移民計画を拡大し、白豪主義を初めて緩和した。1949年から1958年には労働・国民奉仕大臣も務め、いくつかの労使紛争を処理した。1956年に自由党の副党首となり、1958年の選挙後は財務大臣となって、オーストラリア準備銀行の創設と十進法のオーストラリア・ドルの導入に関わった。1961年には信用の逼迫の責任を問われたが、経済はすぐに回復し、メンジーズの後継者と目される立場を保った。

1966年1月、メンジーズの引退に伴い、対立候補なしで自由党の党首に選ばれ首相に就任した。その年の総選挙で圧勝している。政権は白豪主義の解体を続け、憲法を改正して先住民に関する事項を連邦政府の責任とし、ポンド圏からも離れた。アジアや太平洋との関わりを深め、東アジアの国々を訪れた。冷戦下では同盟国のイギリスやアメリカと緊密な関係を築き、ベトナム戦争に自国軍を派兵し、アメリカのジョンソン大統領と緊密な関係を保った。ホワイトハウスで「どこまでもジョンソンとともに」と述べたが、国内の評判は悪かった。

1967年12月17日、友人たちとメルボルン南方のビーチへ出かけ、荒波の中で泳いでいる最中に行方不明となった。六日間にわたり捜索されたが、本人も遺留品も見つからなかった。主要国の首相が行方不明になる例は、第二次世界大戦以降では類を見ない。スパイとして潜水艦で連れ去られた、国外に逃亡して愛人と暮らしているなどの憶測が飛び交ったが、2005年9月2日、ヴィクトリア州の検視官は、荒波にさらわれて溺死したと最終判断を下した。遺体は今も発見されていない。この出来事から、急にいなくなることを意味するオーストラリアの俗語「ハロルド・ホルトをする」が生まれた。

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