伝記
モハンマド・モサッデクは、1882年6月16日、イランの首都テヘランに生まれた。ガージャール朝の縁戚にあたる名家の出で、父ミールザー・ヘダーヤトは国王ナーセロッディーン・シャーの財務省に仕えた高官、母ナジメ・アッサルタネはガージャール朝の王女であった。母方では国王ムザッファロッディーン・シャーの甥にあたる。若い頃は「ミールザー・モハンマド」と呼ばれ、「モサッデク(勇敢な者)」は、1923年に称号が廃止されて全員が正式な姓を持つことになった際、一族が採用した名で、もとは国王から与えられた称号に由来する。10歳で父を失い、母の手で育てられて、幼い頃から社会に対する意識を教え込まれたという。のちにフランスに留学してソルボンヌ大学を卒業し、スイスで国際法の博士号を取得した。このため「モサッデク博士」として知られる。
帰国後はイラン立憲革命に参加し、国会議員となって、内閣では財務大臣を務めた。ホラーサーン州の財務長官も務め、1920年代には何度か大臣となったが、1928年に政界を退いた。1941年に復帰して国会議員に選ばれた。パフラヴィー朝成立後の1944年に政党を結成し、民族主義を掲げて、政治と経済の両面で影響力を持っていたイギリスへの抵抗運動を始めた。第二次世界大戦中、イランは中立だったが、ドイツ人技術者がいることを理由にイギリスとソ連が進駐し、戦後もイギリスの影響力の強い政権が続いた。英国資本のアングロ・イラニアン石油会社(現在のBP)がアバダンの石油を独占し、イラン国内にはほとんど利益がもたらされなかった。1949年の時点で、モサッデクらはほぼ唯一の反植民地主義的な、つまり反英の勢力として、国民の支持を得ていた。
1951年、ラズマラ首相の暗殺を受け、民主的な選挙を通じて首相に就任した。イギリスは懐柔案として、利益を英国とイランが半々で受け取るという石油協定の改正を提案したが、モサッデクはそこにイギリスの支配継続の意図を見て、断固として拒否した。石油国有化法を可決させ、石油利権を取り戻して、石油産業を国有化した。これに対してイギリスとその後ろ盾のアメリカをはじめとする西側諸国は猛反発し、イラン産石油は国際市場から締め出されて、政府は財政難に陥った。モサッデクはソ連に接近したが、実際には共産化を警戒しており、ソ連のほうも彼を「ブルジョワ」と見て警戒していた。政治基盤の国民戦線は緩い連合体だったため、宗教勢力の離反などで弱体化し、支持を失っていった。その間、社会保障の導入や家賃の統制、農地改革の開始など、社会・政治面の改革も進めた。
1953年8月、アメリカとイギリスの情報機関が資金を投じたとされる工作(アジャックス作戦)のなか、皇帝派によるクーデターが起こされ、モサッデクは国民戦線の閣僚らとともに逮捕され、失脚した。後任の首相にはザーヘディー将軍が就き、石油国有化は骨抜きにされた。モサッデクは不公正な裁判で死刑を宣告されたが、執行はされず、3年間投獄されたのち、自宅軟禁に置かれた。晩年は地域の貧しい農民を集めて、無料で食事や医療を提供する活動に力を入れ、1967年3月5日に死去した。1979年のイラン革命では、その顔の写真や絵が掲げられた。革命後も、外国勢力とも宗教勢力とも距離を置いた指導者として慕う国民は多い。一方、王党派は今も彼を「共産主義者」と批判している。
同じ年に亡くなった人物
- ジェームズ・ダン (1967年没)
- ベンノ・オーネゾルク (1967年没)
- ジョン・コルトレーン (1967年没)
- ジョージ・リンカーン・ロックウェル (1967年没)
- ジョン・コッククロフト (1967年没)
同じ地域に関係する人物
- アルベール・ラモリス (1970年没)
- アフマド・シャムルー (2000年没)
- Rayhaneh Jabbari (2014年没)