伝記
フィリップ3世は、1396年7月31日に生まれたヴァロワ=ブルゴーニュ家の第3代ブルゴーニュ公である。父は無怖公ジャン1世、母は下バイエルン=シュトラウビング公アルブレヒト1世の娘マルグリット・ド・バヴィエールで、その長男にあたる。のちに「善良公」と呼ばれた。幼少期の1403年、祖父の豪胆公フィリップ2世の意向でフランス王シャルル6世の娘ミシェル・ド・フランスと婚約した。1415年にイングランド軍がフランス遠征を始めると、父の命令でアルトワの防衛に向かったが、父から参戦を禁じられていたため、アジャンクールの戦いには加勢しなかった。この戦いでフランス側のアルマニャック派は大敗し、善良公は加勢しなかったことを後悔したという。
1419年に父がアルマニャック派の手で殺害されると、ブルゴーニュ公位を継いだ。父の仇であるアルマニャック派が推す王太子シャルル(のちのシャルル7世)に対抗するため、フランス王位を要求していたイングランド王ヘンリー5世と同盟を結んだ。これにより百年戦争はイングランド優位となり、ヘンリー5世は1420年のトロワ条約でフランス王位の継承権を得た。1423年には政略結婚で両国の関係を強め、妹アンヌはベッドフォード公ジョンに嫁いだ。しかし善良公はフランス戦線には関心が薄く、北のネーデルラントの獲得を目指していた。1424年にグロスター公ハンフリーがジャクリーヌ・ド・エノーとの結婚を根拠にネーデルラントへ出兵すると憤慨して迎え撃ち、イングランドとの同盟にひびが入った。
その後、王太子の姑ヨランド・ダラゴンの接触もあって徐々にフランスへ歩み寄り、1429年にジャンヌ・ダルクの活躍で形勢が逆転すると、シャルル7世の使節と交渉して休戦を誓った。1430年のコンピエーニュ包囲戦にはイングランドの顔を立てて参戦し、配下のリニー伯ジャン2世がジャンヌを捕らえてイングランド軍に引き渡している。1431年12月にはフランスと改めて休戦し、ヘンリー6世のパリでの戴冠式には欠席して、イングランドから離れていった。1435年、アラスでの講和会議でイングランドが離脱すると、9月21日にフランスとの間でアラスの和約が結ばれ、百年戦争はフランスの勝利へ向かうことになった。
和約はイングランドには裏切りと受け取られ、フランドル商人の弾圧などの報復を招いた。善良公も1437年にカレーを包囲したが失敗し、ブリュージュやヘントの蜂起にも直面したが、反乱を平定して1439年にイングランドと休戦し、通商関係を回復した。1440年にはオルレアン公シャルル・ド・ヴァロワを迎え入れ、姪のマリー・ド・クレーヴを娶わせている。その後はルクセンブルクに狙いを定め、1441年に抵当権を手に入れ、1443年の戦争で武力占領して実質的な領主となり、1461年に正式に領主と認められた。ベネルクス3国は善良公の領有するところとなった。1456年にはシャルル7世と不和になった王太子ルイ(のちのルイ11世)をブラバントに迎え入れた。晩年は老齢から指導力が衰え、息子シャルルと家臣のクロワ一族が対立し、ルイ11世にソンム川の土地を買い戻されるなど失敗が続いた。1467年に死去し、後をシャルルが継いだ。
ネーデルラントでは領土を拡大して安定した統治を行い、金羊毛騎士団を創設して騎士道文化が最盛期を迎えた。ファン・エイク兄弟らのフランドル派絵画やネーデルラント楽派の音楽は、ヨーロッパで最高水準に達したとされる。1430年にポルトガル王ジョアン1世の娘イザベルと3度目の結婚をし、嫡子シャルルをもうけた。
同じ年に亡くなった人物
- イェンス・ベントソン・オクセンシェルナ (1467年)
- エレオノーレ・フォン・ポルトゥガル (1467年没)
- Ludwig von Erlichshausen (1467年)
- ジャン・ドルレアン (アングレーム伯) (1467年没)
- ハンス・ムルチャー (1467年)
同じ地域に関係する人物
- Robert Lamoot (1996年没)
- ガストン・ルブリ (1953年没)
- アンドレ・ノワイエル (2003年没)
- ピエール・ド・ラ=リュー (1518年没)
- ゲオルク・ドナトゥス・フォン・ヘッセン=ダルムシュタット (1937年没)