HISTORICAL PERSON · 1968年没

マーティン・ルーサー・キング・ジュニア

米国の牧師で、ガンディーに共感し非暴力の公民権運動を率いた。「私には夢がある」の演説で知られ、1964年にノーベル平和賞を受賞し、暗殺された。

生涯
1968年没
死亡地
アメリカ合衆国(テネシー州 / メンフィス)
出生地
アメリカ合衆国(アトランタ)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(テネシー州)

伝記

マーティン・ルーサー・キング・ジュニアは、1929年1月15日にジョージア州アトランタで、バプテスト派の牧師マイケル・キングの息子として生まれた。父は1935年にマーティン・ルーサーと改名し、息子も同じ名になった。6歳のとき、隣に住む白人の家族の母親が、遊び仲間の男児2人を「二度と遊ばせません」と宣言した。これが人生で初めての差別体験だった。高校時代には弁論大会で優勝したが、帰りのバスで白人に席を譲るよう強制され、激しく怒った。この体験が、のちのバス・ボイコットにつながっていくとされる。

1944年にモアハウス大学に入学し、法律家か聖職かで迷ったが、父と同じ聖職者の道を選び、1947年に牧師の資格を得た。1948年に卒業して、ペンシルベニア州の神学校に3年間学び、そこでマハトマ・ガンディーの思想を知って深く傾倒した。1955年にボストン大学神学部で博士号を取得した。同大学に在学中、音楽院の学生コレッタ・スコットと知り合って結婚した。コレッタは4人の子供を育て、夫の死後はその遺志を継いで非暴力社会変革センターを設立し、2006年に78歳で亡くなった。

1954年9月、アラバマ州モンゴメリーのバプテスト教会の牧師に就任した。1955年12月、黒人のローザ・パークスがバスで白人に席を譲らず逮捕される事件が起き、キングは激しく抗議して、バス・ボイコット運動を計画し、先頭に立った。運動は382日に及び、黒人たちは自家用車などでネットワークを組んで抵抗を続け、1956年11月に連邦最高裁判所からバス車内の人種分離法に違憲判決を勝ち取った。これは公民権運動に一般民衆が参加した初めての運動であり、キングは最も有力な指導者の1人となった。1957年に南部キリスト教指導者会議を結成して会長となり、1958年9月にはハーレムで黒人女性にナイフで胸を刺されて、一命を取り留めた。
1960年2月に学生たちがグリーンズボロで座り込みを始め、運動はキングの統括のもと南部全域に広がった。1961年秋からのオールバニ運動は、市側の巧妙な対策により失敗したが、戦略を練り直して、最も人種差別の激しい都市として知られたバーミングハムを選び、1963年の初めに運動を開始した。警察署長のブル・コナーは、丸腰の黒人青年に警察犬をけしかけ、警棒で殴り、高圧ホースで水を浴びせた。その映像がテレビや新聞で流れ、アメリカの世論は白人の人種差別主義者による暴力に拒絶反応を示した。キング自身も4月12日に逮捕されて独房に入れられたが、歌手のハリー・ベラフォンテが保釈金を支払った。獄中で書いた『バーミングハム刑務所からの手紙』で、市民的不服従の正当性を主張した。キングの運動の特徴は、徹底した非暴力主義にあった。

1963年8月28日のワシントン大行進には20万人を超える人々が集まり、リンカーン記念堂の前で、キングは「私には夢がある」の一節を含む演説を行って、人種差別の撤廃と各人種の協和という理想を簡潔な文体で訴えた。1964年7月2日、ジョンソン政権のもとで公民権法が制定され、法の上での人種差別が終わった。同年のノーベル平和賞を、当時の史上最年少で受賞し、賞金は全てのアフリカ系アメリカ人のものだと述べた。一方、急進派は非暴力を掲げる方針に反発し、マルコムXを支持した。1965年にマルコムXが暗殺されると、キングは悲劇だと語った。1968年4月4日、ジェームズ・アール・レイに暗殺され、マルコムXと同じ39歳で亡くなった。2004年に議会名誉黄金勲章が贈られた。

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