伝記
カール・テオドア・ドライヤーは、1889年2月3日にコペンハーゲンで生まれ、1968年3月20日に没したデンマークの映画監督である。生涯に14本の長編映画を監督し、いずれの作品も神秘性を持つとされる。
父はスウェーデンに住むデンマーク人の富裕な地主、母はその家の女中でスウェーデン人だった。私生児として生まれ、すぐに乳児院に預けられ、いくつかの施設を転々としたのち、翌年にコペンハーゲンの植字工ドライヤー家の養子となった。養家は厳格で、「飢えないでいることに感謝せよ」と絶えず強いたと、のちに語っている。17歳で事務員の仕事を見つけて家を出て、二度と戻らなかった。18歳のとき、生みの母ヨセフィーナ・ニルソンの運命と自分の出生の秘密を探り当てた。母は妊娠が発覚すると、父の一族からスウェーデンを離れて密かにデンマークで出産するよう強いられた。スウェーデンに戻ったのち、別の男性との子を身ごもったが、結婚を拒まれ、硫黄を使った民間療法で堕胎を試みて、中毒で死亡したという。ドライヤーは、男性や権力者の欺瞞によって生まれる社会の抑圧と不寛容が母を死に追いつめたと悟った。この「社会の抑圧と不寛容」という主題は、その後の作品に色濃く反映された。自身の出生について多くを語ることはなかった。
その後ジャーナリストになり、新聞に演劇評などを寄せ、気球の飛行に参加することもあった。のちの『怒りの日』や『奇跡』の原作となった戯曲の舞台を、演劇評論家として観ている。裁判記事も書き、毎日のように裁判所に通って、中産階級の人々を知った。やがて映画に関心が傾き、映画会社ノーディスク・フィルムで、編集やサイレント映画の字幕の挿入を行って、技術を学んだ。この仕事を「素晴らしい学校のようなもの」と呼び、「編集は演出の一部分をなしている」と述べている。脚本の執筆も手がけ、1918年に第1作『裁判長』の製作に着手し、翌年完成させた。
3作目の『サタンの書の数頁』(1920年)以降は、不況で映画界が衰えていたデンマークを離れ、ヨーロッパの国々を渡り歩いた。『不運な人々』はドイツ、『むかしむかし』はスウェーデン、『グロムダールの花嫁』はノルウェーと、作品ごとに製作会社が変わり、特定のスタジオに属して作る当時の常識から外れた状況で撮ることを余儀なくされた。1924年にドイツで画家を主人公とする『ミカエル』を撮り、1925年にデンマークに戻って撮った室内劇『あるじ』が興行的に成功した。これでフランスの会社から歴史劇を依頼され、ジャンヌ・ダルクの異端審問から火刑までを、実際の裁判記録に沿って描く映画に着手し、1928年に『裁かるるジャンヌ』を発表した。1932年には初のトーキー『吸血鬼』を撮ったが、これらの作品は、今では代表作とされるものの、当時は興行的に失敗した。『裁かるるジャンヌ』の原版は火事で焼失し、再編集した版も焼失したが、オリジナルのフィルムは1981年にノルウェーの病院で発見された。
その後は、『怒りの日』(1943年)、『奇跡』(1955年)、『ゲアトルーズ』(1964年)と、ほぼ10年に1本のペースで撮った。『奇跡』はヴェネツィア国際映画祭の金獅子賞を受け、『ゲアトルーズ』も同映画祭で賞を受けた。固定した様式を持たず、常にその作品一本にしか有効でないスタイルを探し求めたことでも知られる。1968年3月20日の明け方、コペンハーゲンの病院で79歳で亡くなった。晩年は、キリストの生涯とエウリピデスの『メディア』の映画化を進めていたが、実現しなかった。
同じ年に亡くなった人物
- ルドヴィコ・スカルフィオッティ (1968年没)
- デューク・カハナモク (1968年没)
- アンナ・カヴァン (1968年没)
- ジークフリート・ギーディオン (1968年没)
- アレクセイ・クルチョーヌイフ (1968年没)
同じ地域に関係する人物
- ソフィーア・ブラーエ (1643年没)
- ルイーゼ・フォン・ヘッセン=カッセル (1898年没)
- ゾフィー・フリーデリケ・ツー・メクレンブルク (1794年没)
- リーズ・ノルガード (2023年没)
- アイナー・ミケルセン (1971年没)