伝記
カール・バルトは、1886年5月10日にスイスのバーゼルで牧師の子として生まれ、1968年12月10日に没した神学者である。二十世紀のキリスト教神学に大きな影響を与え、その思想は弁証法神学、危機神学、新正統主義などと呼ばれた。バルト自身は、自らの神学を「神の言葉の神学」と呼んでいる。1934年、ナチス・ドイツの政策に従うドイツ福音主義教会に対抗して結成された告白教会の理論的指導者となり、バルメン宣言を起草した。
父ヨハン・フリードリヒは改革派教会に属し、ベルン大学で新約聖書学と教会史を教えた。中流の家庭で厳しく育てられたが、父を尊敬し、母アンナには愛着を持つ少年に育った。本の虫で、戦争ごっこの好みもあって戦争史に詳しくなった。父がピアノで弾くモーツァルトの『魔笛』に深く感動するなど、感受性に富んだ少年期を過ごした。1904年にベルン大学へ入学し、新旧約聖書学者のもとで、聖書を歴史的、批評的に研究する方法を学んだ。父は保守的なハレ大学を勧めたが、向学心に燃えるバルトは、当時の学問の中心であったドイツの自由主義神学を学ぼうと、ベルリン大学に進み、ハルナックに師事して教会史を学んだ。続いて、テュービンゲン大学でシュラッターから新約聖書学を、マールブルク大学でヴィルヘルム・ヘルマンのもとで教義学を学んだ。
1910年にジュネーヴで改革派教会の副伝道師となり、1911年から1921年まで、アールガウ州ザーフェンヴィルで牧師を務めた。村は工業化の影響を受け、社会主義や労働組合運動が盛んだった。バルトは、父から受けた「神の言葉を曲げず、真理を明らかにすることにより」という助言のもとで説教をしたが、その内容に工場主が反発した。1912年に父が没した。1913年にネリー・ホフマンと結婚し、三人の子をもうけた。1916年から翻訳し、独自の解釈をつけて執筆していた『ローマ書』の第一版を、1919年に発表した。1921年からは、ドストエフスキー、ニーチェ、キルケゴールを読み込み、人間が陥る深淵への理解を深めて、改訂版を書き始めた。1922年に『ローマ書』第二版が完成し、バルトの神学は高く評価された。このころ、弁証法神学の機関誌『時の間』が創刊された。同年にゲッティンゲン大学から招かれ、1925年にミュンスター大学に、1930年にボン大学に移った。1929年にアンセルムスの研究を始め、これが固有の神学の方法論を確立する基礎となった。1931年に社会民主党に入党した。ナチス勢力に反対する意思を示し、ドイツ民族主義と明確に区別するためだった。1932年から『教会教義学』の出版を始めた。1934年にヒトラーへの忠誠の宣誓を拒否して停職処分となり、翌年退職処分を受けた。
1935年にバーゼル大学の神学教授に招かれ、著作活動を展開した。1937年にアバディーン大学での講演を機に、神の自己依存性が神の自由であり、その神が人間を創造して交わりを持つのが神の愛である、という方法論を確立した。同年『教会教義学』第一巻が完成した。1939年に第二次世界大戦が勃発すると、ナチスを神学的に批判し、軍事面でもその脅威から防衛するべきだと考えて、1940年にスイス軍に入隊した。戦争の終わりには、ドイツ人の友であると宣言し、1945年8月に破壊されたドイツを訪れた。戦後は、東西に分断されたドイツの和解を語る一方、再軍備と反共産政策を批判して、各国の知識人から非難された。1964年ごろから体力が衰え、1967年にローマに招かれ、教皇パウロ6世らと語り合った。1968年12月10日、自宅で亡くなった。
同じ年に亡くなった人物
- レオ・ヒューバーマン (1968年没)
- ルートヴィヒ・ヴィルヘルム・イン・バイエルン (1968年没)
- 今村均 (1968年没)
- ロベール・リオッテル (1968年没)
- ルイ・オベール (1968年没)
同じ地域に関係する人物
- トマス・エラストス (1583年没)
- フリッツ・ハーバー (1934年没)
- オットー・フランク (1980年没)
- ヤーコプ・ヴァッカーナーゲル (1938年没)
- ピエール・ルイ・モーペルテュイ (1759年没)