伝記
コンスタンチン・コンスタンチノヴィチ・ロコソフスキーは、1896年12月21日に生まれたソ連とポーランドの軍人で、ソ連邦元帥、ポーランド元帥、2度のソ連邦英雄である。出生名はコンスタンチン・クサヴェリエヴィチ・ロコソフスキーという。出生地には、ロシアのヴェリーキエ・ルーキ、ワルシャワ、ベラルーシのテレハヌィなどの説がある。父はポーランド人の貴族階級の出だが、自身は鉄道技師で、母は自らをロシア人と見なす教師だった。5歳のときに一家はワルシャワに移り、彼はそこで育った。14歳で孤児となり、靴下工場で働き、15歳で石工の見習いになった。後年ポーランドの政府は、ワルシャワの橋の建設に彼が関わったと宣伝に使った。
1914年に第一次世界大戦が始まると、ロシア帝国軍に入隊し、第5竜騎兵連隊の下士官として終戦を迎えた。戦争中に2度負傷し、聖ゲオルギー十字章を授与された。入隊時には、父称がロシア風に改められている。1917年にボリシェヴィキに参加し、間もなく赤軍に入った。ロシア内戦ではコルチャーク率いる白衛軍と戦い、1919年11月に肩を負傷しながらも、敵の司令部を制圧して赤旗勲章を受けた。1921年にはイルクーツクに駐屯する連隊を率い、モンゴル人民共和国の創設者スフバートルを権力の座につけるのに重要な役割を果たした。ウンゲルン男爵の軍を破るなかで足に負傷し、モンゴルでのちの妻と出会っている。内戦後は指揮要員の課程を修め、1930年から師団を指揮して少将となり、蔣介石の国民革命軍の軍事顧問を務めたほか、1936年から1937年にかけてスペインの軍事顧問も務めた。
ところが赤軍の大粛清に巻き込まれ、裏切り者とされて投獄され、拷問を受けた。有罪の証拠とされたのは、20年前に死んだ人物の証言だった。才能を惜しんだゲオルギー・ジューコフの個人的な嘆願や、フィンランドとの戦争でのソ連軍の失敗を受けて、1940年に釈放され、軍団の指揮に戻った。独ソ戦が始まると機械化軍団長として西ウクライナで戦い、1941年11月から西部戦線の第16軍を率いてモスクワの防衛に功を立てた。1942年7月にブリャンスク戦線の司令官となり、9月からドン戦線を指揮した。スターリングラード攻防戦ではドイツ第6軍の逆包囲に成功し、第二次世界大戦全体の戦局を転換する勝利をもたらした。1943年2月に中央戦線の司令官となり、夏のクルスクの戦いでも重要な役割を果たした。10月には白ロシア戦線の司令官となり、1944年7月29日にソ連邦元帥となった。バグラチオン作戦に参加してミンスクを解放し、11月には第2白ロシア戦線の司令官として東プロイセン攻勢に加わり、1945年4月にはベルリンの戦いに参加した。6月24日にはモスクワで戦勝記念パレードを指揮した。
戦後はポーランドに駐屯した北方軍集団の司令官を務めた。1949年にポーランド政府の要請という形で国防相となり、閣僚会議副議長、ポーランド元帥の称号も得た。ポーランド人だから正当化されたが、ソ連生活が長く、ポーランド語よりロシア語が得意だった彼は、「自分は、ソ連ではポーランド人、ポーランドではロシア人と見られる」とこぼしたともされる。1956年のポズナン暴動を武力で鎮圧し、フルシチョフにソ連軍の直接介入を訴えたが、ゴムウカが内政の自律権を守ると、国防相を辞任してソ連に帰国した。国防次官や国防省の監察総監などを務め、1968年8月3日に死去した。遺体はモスクワの赤の広場のクレムリンの壁に葬られた。回想録に『兵士の責務』がある。
同じ年に亡くなった人物
- ヒアツィント・シュトラハヴィッツ (1968年没)
- エミール・ヒルシュフェルト (1968年没)
- ジャンヌ・ドゥメッシュー (1968年没)
- フリッツ・シュティードリー (1968年没)
- トミー・ヌーナン (1968年没)
同じ地域に関係する人物
- ヴァシリー・ウルリヒ (1951年没)
- セルゲイ・ボトキン (1889年没)
- ニコライ・グライエフ (1985年没)
- アレクセイ・ペトローヴィチ・イェルモーロフ (1861年没)
- フロル・コズロフ (1965年没)